2005年09月29日

良寛生誕の地・出雲崎で全国良寛会総会

 平成17年度全国良寛会出雲崎総会は、北は北海道から南は九州まで全国から6百余名の参加を得て、9月24日新潟県出雲崎町町民体育館で盛大に行われました。
このページは出雲崎大会の記録ですが、出雲崎の紹介を兼ねて制作しました。そのため祝辞や挨拶は勝手ながら「出雲崎と良寛さま」のお話を中心に編集させてもらいました。お許しいただきたいと思います。
出雲崎総会会場

 総会は出雲崎良寛景慕会幹事・佐藤亨氏の総合司会のもとで定刻13時に開始されました。先ず物故会員(倉内勇吉・元分水町良寛会会長、中野孝次・顧問、西野武朗・静岡県良寛会会長ほか)に対する黙祷が行われました。

佐藤新次郎・出雲崎良寛景慕会会長
 次いで開会挨拶には地元出雲崎良寛景慕会会長・佐藤新次郎氏が立たれました。佐藤氏は良寛さまが生まれた出雲崎には沢山の史跡がありますので、良寛さまを偲び、また学びその中から見習っていただきたい。そしてこの度の総会が皆様の協力で順調に進められることをお願いする旨のご挨拶をいただきました。

全国良寛会会長・斎藤信夫 そして斎藤信夫全国良寛会会長の挨拶がありました。斎藤会長は今回で会長職を降りられ、名誉会長に就任されることになっている。会長は初代・近藤敬四郎会長、小島寅雄前会長時代は副会長などの職につかれ、そして会長職を3期勤められた、その感懐や大会開催に当たっての出雲崎町長はじめ役場の皆様、そしてこの会の成功のために奮闘された地元出雲崎良寛景慕会の皆様に御礼を述べられました。そして新会長になられる予定の長谷川義明氏と今日の講演の講師・梅原猛氏を紹介をされました。そして最後に在職中の皆様からのご支援に感謝の言葉を述べられました。

小林則幸・出雲崎町町長 来賓祝辞は小林則幸・出雲崎町町長からいただきました。
 全国津々浦々から良寛さまを敬慕してお集まりの皆様、このように盛会に開催されることを御慶び申上げますと同時に、大勢の出雲崎町民からご参加を頂いたことに感謝とご歓迎を申上げます。
 出雲崎は青い海、緑の山に恵まれながら、歴史文化伝統を育みながら、思いやりのある街づくりを目指して、町民一丸となって心掛けているところであります。しかし時の流れは非常に厳しく、数々の試練に直面しています。しかし出雲崎町は困難に打ち勝って、ひたすら前進しようと思っているところであります。
 良寛さまは「災難がある時節には災難に逢うがよく候」といわれているように、昨年は集中豪雨に続く地震と、出雲崎町も大変な被害がありました。全国の皆様からのご支援のお蔭でどうやら復興の目途が見えて参りました。皆様方に心から御礼申上げたいと思います。
 出雲崎町と分水町、与板町が合併して「良寛町」とする町村合併の計画は8分通り進んだのですが、後退せざるを得ない結果となりました。これは誠に残念なことであります。
 これからの出雲崎は、良寛さん、芭蕉さん、あるいは天領、石油発祥の地など数々の大きな文化遺産がありますので、これらに光を当てて、困難に耐えながら前進したいと思っています。
 また良寛さまの言葉に「これはこれ、災難をのがるる妙法にて候」とも云っておられます。私はこの言葉を受け止めながら、新しい前進を図って行く所存であります。
 物質文明が頂点を極めた感のあるこの頃、私達は人間として何か足らないものがあると感じているところであります。かつてあの厳しい時代、家族愛、兄弟愛、人間愛、向こう三軒両隣、この素晴らしさが今忘れ去られてしまっているように思います。あの厳しい修行に耐えながら、限りない自愛・愛情を下さった良寛さん、詩歌、書道を極めた良寛さん、今こそ私達は良寛さまの生き様を学ぶ時だと思っています。今日ここにご参会の皆さんには、これからの時代を育てる今良寛としての期待がかかっていると思うのです。その意味でも良寛会活動はは発展的に進めなければならないと思っております。
 承りますと良寛会のために大変なご努力をなさった斎藤会長さんが今期限りで勇退され、長谷川さんが新会長に就任されるそうですが、斎藤会長には有難うございましたと心から御礼申上げ、新しい会長のもとに全国良寛会の益々の弥栄をお願いするところであります。
 これからも数々の催しがありますが、この機会に存分に出雲崎を楽しんでいただきたいと思います。お互いに健康に留意されて益々のご活躍ご発展を祈念してお祝いの詞とさせていただきます。今日は大変おめでとうございました。

祝電の披露では、県議会開催中のため出席できなかった泉田新潟県知事と近藤元彦衆議院議員の祝電が披露されました。
加藤僖一・全国良寛会副会長
 総会議事は、加藤僖一・全国良寛会副会長の議長のもとで進められました。
 加藤議長の挨拶では、今年の総会は文字通り良寛生誕の地で開催することが出来て、大変嬉しく思っております。500名を超える大勢の会員の皆様からご参集いただいてこのように盛会に催すことが出来るのを皆さんと共に喜びたいと思います。また出雲崎良寛景慕会佐藤新次郎会長をはじめとする実行委員会の皆さんが非常に献身的に準備運営に当たれれ、また小林則幸町長さんのお計らいによって町当局から多額な財政的な援助も戴いて運営されております。高い所から失礼ですが心から御礼申上げます。
 という報告があり、業務報告及び年次計画、決算及び予算案、役員人事、次年度大会開催地の審議採決が行われ、いずれも原案通り採択されました。

 なお、次年度総会は6月10日(土)、11日(日)、弥彦村良寛会の主管で弥彦文化会館で開催されます。

長谷川義明・新全国良寛会会長長谷川義明新会長挨拶
 先程、斎藤前会長さんからご懇篤な紹介をいただきまして恐縮しております。今日お集まりの皆さんは各地で良寛の顕彰にご活躍いただいております。各界で、地域で皆様がそれぞれの立派に活動を継続されておりますように、全国良寛会としましてもこういった輪を是非広めて行きたいと思っています。
 全国良寛会といたしましても各地域の良寛会と協調を図って進めていきたいと思っています。また私は良寛さんを勉強すればするほど大変奥が深い方だ思います。良寛さんを知ることにより、心が穏やかになり安らぎを覚える、良寛さまはそういう幸せをいただける方だと思います。良寛を学ぶという幸せ、こういった人の輪をこれからももっともっと広めていきたいものだと思っています。
 全国良寛会の方々、各地域で良寛の顕彰の活動をされている方の共闘で、良寛の遺徳を顕彰していくという活動の輪をもっともっと広げていきたいと思っています。
 全国良寛会の会員の皆様方の今後一層のご指導とご鞭撻をいただきながら努力して参りたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。

 続いて、次期総会開催地の弥彦良寛会会長・梨本哲雄氏の挨拶がありました。
来年度全国良寛会総会は弥彦で開催することに決定しました。日程は平成18年6月10日土曜日、総合文化会館で開催します。翌日の日曜日は弥彦村の史跡めぐりをすることになりました。良寛さまの歌に「世の中を 何にたとへん 伊夜日子(いやひこ)に たゆたふ雲の 風のまにまに」という歌があります。良寛さまはこよなく弥彦を愛され、弥彦山を中心とした弥彦の自然が皆様方のお越しをお待ち申上げております。弥彦良寛会の会員85名は一丸となって、ご参加下さる皆様方にご満足頂ける様に企画、準備を進めさせていただきます。何卒1人でも多くの方のご参加を重ねてお願い申上げて開催地の代表挨拶とさせていただきます。

 これで総会議事は終了し、閉会挨拶は全国良寛会副会長・柳本雄司氏です。
本日は年1回の良寛会総会に多数ご出席いただき、また熱心に議事をご審議いただきまして大変有難うございました。新しい役員人事案が皆様の協力で承認されましたが、新しい会長のもとに一致団結して良寛会の発展のために尽していきたいと思いますので、更なるご支援を宜しくお願いいたします。
 良寛さまにつながるご縁をもってここに全国津々浦々から多数の皆様からお集まりいただいた訳であります。この一期一会の親交を大切にして、明日、明後日と皆様方は故郷へ帰られますが、また良寛さまの心を広めるようにご尽力頂くことをお願いいたします。また今程は来年の弥彦総会が議決されましたが、今日お出での皆様お一人も欠けることなく、来年6月10日に弥彦に再会することを皆様方とお誓いいたしまして閉会の言葉とさせていただきます。大変ありがとうございました。
---------------《休憩》---------------

休憩の後、全国良寛会出雲崎総会の記念講演がありました。

記念講演
  講師は梅原猛先生で、演題は「良寛の芸術と仏教」です。
講師略歴:宮城県仙台市出身。京都大学哲学科卒業。立命館大学教授、京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター初代所長を経て、現在、同センター顧問。仏教伝道文化賞、NHK放送文化賞、文化勲章などを受賞。また近年、歌舞伎作家、狂言作家としてもご活躍しておられます。

最初に加藤僖一・新潟大学名誉教授、全国良寛会副会長から講師の紹介がありました。  
 梅原先生のご紹介は先日の新潟日報に載せてありますので、ここでは省略させていただきますが、梅原猛先生というだけで、日本では知らない人がいない位有名な先生でいらっしゃいます。先生のご業績やご著書は数え切れないくらいでございますが、あえてただ一冊本をご紹介させていただくとしますと、ここに持ってまいりました『日本の霊性―越後・佐渡を歩く』という本です。
 昨年3月、梅原先生は8日間をかけて新潟県内を取材されまして、9月にこの本を出版されています。日本の霊性のルーツが以外にも新潟県にあるという驚くべき内容の本でございます。その時梅原先生は3月17日、この出雲崎にお出でになりまして良寛堂の横から日本海を眺めまして「ああ出雲崎はええなあ。ここが一番ええなあ」とおっしゃいました。その言葉を聞いた瞬間、「あっ来年の出雲崎総会の講演は大丈夫だな」と思いました。
 梅原先生の講演の中でも良寛さんに限ったお話は今日が初めてではないかと思います。
そして今日の講演はNSTテレビで10月2日(日)、10月9日(日)の2回に分けて、朝5時半から6時まで、合計1時間の番組として放送されます。今日のご講演をお聞きになってさらにテレビで深めていただきたいと思います。それでは梅原先生どうぞ宜しくお願いします。

管理者からのお詫び
 私の聞き違いから、最初「NSTテレビ」を「NHKテレビ」と誤って書いてしまいました。NSTテレビはローカルテレビ局ですので新潟県域しか放送されません。皆様にご迷惑をかけた事を深くお詫びして訂正させていただきます。(管理者・梅津)

良寛の芸術と仏教   梅原 猛 先生

(ここではご講演の内、序論の部分の要旨のみ紹介させていただきます。)


ご講演中の梅原猛先生 いまご紹介がありましたように私は去年の3月、良寛さまのことで新潟県内を回りまして、『日本の霊性』という本を書かせて頂きました。「霊性」という言葉は皆様あまり聞きなれない言葉と思いますが、これは石川県・越の国の鈴木大拙という方がこの言葉を使いました。「精神」という言葉は「日本精神」に通じ、右翼によって大変利用されたため、「霊性」という言葉を使おうと鈴木さんはおっしゃったのです。「精神」というと宗教性とあまり関係しませんが、「霊性」というとまさに宗教性と関係しています。そして近代日本人に宗教性が欠けていることへの大拙の憂いが、この言葉を選ばせたのではないでしょうか
 越後は「霊性の国である」。なぜか。
 遠く縄文時代、糸魚川から宗教に相応しいヒスイが出る。ヒスイは縄文時代、日本人にとって最も貴重なものである。そして火焔縄文土器が十日町に出る。そしてそこから日本の宗教家が二人育っている。一人は親鸞、そしてもう一人は日蓮である。この二人の思想が越後に根付いた。そういうことから越後は「霊性の国」だと思うのです。 梅原猛先生 その越後の「霊性の国」で良寛という人がいる。私は子供の時に相馬御風の『良寛さま』という本を読んだのですが、大きくなって毬ばかりついている坊さんは、ちょっとおかしくないかな、と思ってはじめ敬遠していたのですが、しかし4、5年前から事情があって良寛を読み出したら、やっぱり良寛は素晴らしいと思う。そして昨年、加藤先生のご案内で良寛の遺跡をずっと見て回ったのですが、今は良寛という人は大変な人だと思うようになりました。
 日本の仏教は法然、親鸞、道元、日蓮と、鎌倉時代にピークに達したと思っています。江戸時代というのはそんなに偉い人はいないと思っていたのですが、この頃勉強するにつれて、江戸時代の見方も変わってきました。
 江戸時代は檀家制が確立して、坊さんの生活は安定してきました。しかし新しい宗派を作ることは勿論、新しい寺も建てることさえ禁止されました。そればかりではなくて、布教するには個人で、宗門の外に出て、しかも芸術を使って仏教を広める。そういう坊さんが江戸時代に出ました。この時代、仏教に魂を吹き込んだのはそういう宗派に属さない個人でした。それが円空、白隠、良寛であります。この三人は鎌倉時代の法然、親鸞、道元、日蓮などとそんなに変わらない立派な人間であると思うようになりました。
 その中で良寛の芸術と仏教という話ですが、良寛の仏教と芸術は切り離すことが出来ない一体的なものであると思うのです。良寛の芸術そのものが仏教なのです。仏教の表現手段が良寛の芸術であると思います。
 私は良寛を研究してまだ日は浅いのですが、ほんとの良寛の深いところはまだつかめません。良寛にはまだ謎があります。しかし、今理解している限りでも、良寛は大変な人だと思うようになりました。今日は今まで理解した範囲内で、良寛のことについて語ろうと思います。

というようなお話で始まったのですが、本論の方は10月2日、9日のNSTテレビをご覧になっていただきたいと思います。

この講演でお話になった先生のご著書は
梅原猛著『日本の霊性―越後・佐渡を歩く』佼成出版社
2004年9月出版  税込価格 1,890円

---------------《休憩》---------------

休憩の後、地元の方々によるアトラクションがありました。以下はそのスナップ写真です。
(写真をクリックすると拡大します)
出雲崎保育園児の鼓笛演奏
民謡秀和会・町婦人会員の出雲崎おけさ
↑ 出雲崎保育園児の鼓笛演奏       民謡秀和会・町婦人会員「出雲崎おけさ」↑

出雲崎中学校生徒太鼓同好会の「出雲崎たる囃子」
町小中学校生徒と町コーラスサークルの「良寛さまのうた」
↑出雲崎中学校生徒太鼓同好会の       ↑町小中学校生徒と町コーラスサークルの
     「出雲崎たる囃子」            「良寛さまのうた」

賛助出演・新潟交響楽団の演奏 全員合唱・「また逢う日まで」
↑賛助出演・新潟交響楽団の演奏        ↑最後に全員で全国良寛会総会の歌
                   「また逢う日まで」(前会長・斎藤信夫作詩)合唱

---------------《休憩》---------------

休憩の後、17時から歓迎レセプションがありました。
全国良寛会交流会全国各地からお集まりの皆さんとの交流会、一年振りの再会、懐かしい顔、思いがけない方との出会い、楽しいひと時でした。
また来年の弥彦大会での再会を約してそれぞれの宿舎に向かったのでした。
出雲崎良寛景慕会の皆様、本当にご苦労さまでした。出雲崎町長はじめ役場の皆様、町民の皆様、本当にお世話になりました。有難うございました。


長文の全国良寛会出雲崎総会の報告を最後までご覧いただき有難うぼざいました。
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2005年09月26日

滋賀・京都の紅葉と芭蕉史蹟B 義仲寺(2004.11.30)

 JR稲枝駅10:30発の電車で膳所駅まで行き、徒歩で義仲寺に着いたのが11:30.
義仲寺は悲劇の武将・木曾義仲と俳聖・松尾芭蕉が眠る寺院である。
(画像をクリックすると拡大して見ることができます)

義仲寺 義仲寺・山門
↑ 義仲寺の山門である。           ↑ 義仲寺をこよなく愛した芭蕉にちな
                        んでか、山門を入るとすぐ右に芭蕉の
                        株の植込みが見える。
 木曾(源)義仲の父・源義賢は、久寿2年(1155)8月16日の大蔵合戦で、義賢の兄・源義朝の子、悪源太義平(源義平)に討たれている。
  (悪源太義平は源頼朝、義経兄弟の長兄)
義仲も鎌倉の源頼朝の命により京に上ってきた源範頼、義経軍により近江国粟津ヶ原で討ち死にさせられている。この時、義仲は31歳の若さであった。そしてこの近江国粟津ヶ原(現大津市馬場)には小さな塚が建てられた。これが義仲寺の起りである。義仲を討った義経も兄・頼朝に追われ奥州平泉で自害している。義経も31歳だった。
 芭蕉は木曾義仲や源義経、斉藤実盛といった悲劇の主に思いを寄せ、これらの人の縁の地を「奥の細道」の旅で訪れて句を残している。
 義仲の死から505年、義経の死後500年に芭蕉は奥の細道の旅に出る。義経終焉の地、奥州・高館を訪れ 「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」と詠んでいる。そして加賀に立寄った芭蕉は、斉藤実盛の兜を見て、「むざんやな 甲の下の キリギリス」と有名な句を残している。斉藤実盛は義仲が幼少の頃、命を助けてくれた恩人である。篠原の戦いで討ち取った実盛を見た義仲は、そのいたし方ない因縁に涙を流したという。
 福井では、源平争乱期、平家軍との戦いで戦場と化した木曽義仲の城・燧が城を眺めて詠んだ句 「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」がある。

義仲寺・朝日堂← 義仲寺の本堂で、朝日将軍木曾義仲に由来して朝日堂と呼ばれている。本尊は木彫の聖観世音菩薩で、木曾義仲公、義高公父子の木像を厨子に納めているという。そして義仲公、芭蕉翁など31柱の位牌を安置しているという。現在の朝日堂は昭和54年に改築されたものである。

義仲寺・翁堂

← 翁堂(おきなどう)は正面祭壇には芭蕉翁の座像、左右に芭蕉門下の俳人・丈艸と去来の木像、側面にこの堂を再興(明和6年)した蝶夢法師の胸像を安置している。

義仲寺・木曾義仲の墓 義仲寺・松尾芭蕉の墓 義仲寺・巴塚
 ↑木曾義仲の墓     ↑義仲の隣の芭蕉墓  ↑義仲の側室・巴御前の巴塚

義仲寺・芭蕉句碑(行く春を) 義仲寺・芭蕉句碑(旅に病んで) 義仲寺・又玄句碑
↑芭蕉句碑「行く春を」  ↑芭蕉句碑「旅に病んで」 ↑又玄句碑「木曾殿と」
  行く春を          旅に病んで          木曾殿と
   近江の人と        夢は枯野を           背中合わせの
    過ごしけり        かけ廻る             寒さかな

 芭蕉は近江が好きだったようである。何回か近江を訪れ、義仲寺の無名庵や国分寺山の幻住庵に滞在している。元禄3年(1690)、琵琶湖に遊んだ芭蕉は去り行く春を惜しんで「行く春を」の句を残したという。
 芭蕉は元禄7年(1694)10月旅の途中、大坂で病に倒れ、51歳の生涯を終えたが、「旅に病んで」は辞世の句として有名である。どこを駆け巡っていたのであろうか。5年前に旅した「奥の細道」の旅であろうか、また遺言により葬ってもらう義仲寺の木曾義仲のことだろうか。
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。」
『奥のほそ道』の有名な序文である。「旅に病んで」は芭蕉らしい辞世句である。
 「木曾殿と」は伊勢の俳人・又玄(ゆうげん)の句である。又玄は元禄4年、義仲寺の無名庵に滞在していた芭蕉を訪てそこに泊った時に詠んだという句である。
義仲寺・庭園 芭蕉翁絵詞伝
「芭蕉翁絵詞伝」→
寛政4年(1792)
木曾塚(義仲寺)の図
(義仲寺の入場券より)
←義仲寺庭園
この庭園をはじめ、寺域全体が昭和42年に国の史跡に指定されている。

 その他、境内には巴地蔵堂、無名庵、粟津文庫、義仲の側女・山吹御前の山吹塚、芭蕉の門人で芭蕉の信頼が厚かった菅沼曲水の墓などがある。

 義仲寺の見学を終えたのが正午、膳所市内で昼食をとり、次の目的地、幻住庵へ向かった。
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2005年09月21日

滋賀・京都の紅葉と芭蕉史蹟A 金剛輪寺(2004.11.30)

紅葉と不断桜

 話に聞く金剛輪寺の血染めのモミジを一度見てみたいと思っていたのが、ようやく実現した。噂に違わず素晴らしいモミジだった。
写真をクリックすると拡大します)


金剛輪寺・黒門

11月30日朝7:08発のJR線で滋賀県の稲枝駅に向かう。駅からタクシーに乗り、金剛輪寺に着いたのが8時25分、黒門から入り受付で8時半の開門を待つ。

金剛輪寺・参道1受付から真っ直ぐ参道を進む。金剛輪寺(松峰山金剛輪寺)は琵琶湖の東側、湖東三山の中央に位置する天台宗のお寺で、近江三十三観音十五番札所である。
天平13年(741)、聖武天皇の勅願により、行基が開いたとされている。本尊の聖観世音菩薩は行基の作と云われています。また寿永2年(1183)には源義経が木曾義仲を追討する際に、武運必勝を祈願し太刀を寄進したとも云われています。

金剛輪寺・庭園
ここの庭園は、近江路一といわれ、池泉回遊式庭園で桃山時代・江戸初期・中期の三庭から構成されている。作者は不詳だが国の名勝庭園に指定されている。この北庭のモミジは「血染めのモミジ」といわれるだけあって、その朱色はさすがにきれいであった。

紅葉と不断桜
庭園のモミジに混じって桜の開花が見られた。不断桜だという。モミジの赤と常緑樹の緑、そして桜の白のコントラストがなんと美しいことか。

金剛輪寺・参道2
二天門前の参道には、一体一体に「よだれ掛け」をかけ風車を飾られたお地蔵さまが並んでいる。坂道の難儀を癒してくれる可愛いお地蔵さんである。よだれ掛けは信者の寄進によるもので、年に3回かけ替えられるという。

金剛輪寺・三重塔
本堂は鎌倉時代を代表する雄大な和様建造物として国宝に指定されている。堂内には秘仏本尊聖観音さま、阿弥陀如来像、十一面観音立像が安置されている。

三重塔は待龍塔と云われ、創建は寛元4年(1246)といわれており、高さ22.9メートル、屋根は桧皮葺である。江戸時代には大破したまま打ち捨てられていたが、昭和50年(1975)に解体復元されて、国指定重要文化財になっている。
その他の建物では二天門、大行社本殿も国の重要文化財に指定されている。

10時頃、待ち合わせのタクシーに乗り、10:30発の電車で「義仲寺」のある膳所へ向かった。

次回の掲載は「義仲寺」

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2005年09月20日

滋賀・京都の紅葉と芭蕉史蹟を訪ねて@ はじめに

はじめに

 去年(2004年)11月29日から12月4日にかけて「滋賀・京都紅葉と芭蕉の史跡を訪ねて」と題して旅をした。11月29日、新潟駅前発22時5分の京都、大阪行きの夜行高速バスで出発。初めての夜行高速バスだったが、座席はリクライニングでゆったりとしており、騒音も少なく、快適な車中であった。途中に降ってきた雨も京都駅に着く頃にはすっかり上がっていた。京都駅着は6時頃、駅の待合室広場で、持参したおにぎりをいただき、JR線で稲枝駅に向かう。ここから今回の「紅葉と芭蕉の史跡をめぐる旅」がスタートした。この旅の宿泊地は石山温泉・菩提樹、大原・三千院道、嵯峨一休、南禅寺前・湖月荘である。今年も間もなく紅葉の季節がやって来ます。今年のモミジの染まり具合はどんなになるでしょうか。
写真をクリックすると拡大します)

幻住庵(滋賀・大津) 永観堂(京都)
以下、私の旅日記を順次掲載します。なお、持参したカメラはフィルムカメラは「Nikon F80s」でリバーサルフィルムを使用、デジカメは「Canon PowerShot S40」です。
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2005年09月17日

ホームページの9月更新完了

 「私のホームページ」の9月の更新は以下の通りです。
@ 「良寛ニュース」は新潟良寛研究会の秋季研修旅行の詳細が決定したこと。
A 出雲崎・良寛記念館からのお知らせ
などが載っています。詳細はここをクリック。

 「良寛詩歌講座」は文化7年11月、良寛さまの弟・由之さん49歳の時、尼瀬の京屋との争いに破れ、財産没収、出雲崎所払いの処分を受け、髪を切って流浪しましたが、後に与板町に住みました。ある日、良寛さまの夢の中にその由之さんが現れてすぐ消えました。その時に詠んだ短歌「いづくより」他2首の解説です。詳細はここをクリック。

 「良寛関係記事」は良寛さまが母乳の出ないお母さんのために集めたという文字白雪こうについて、谷川先生が書かれた記事を紹介します。詳細はここをクリック。
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