圓光寺から徒歩10分足らずの所(一乗寺才形町)に金福寺がある。入り口は民家と見紛うようであった。
(人物写真以外はクリックで拡大します) 山号は佛日山、貞観6年(864)、慈覚大師が自作の聖観音菩薩像を祀り、国家安泰、衆生教済を念じて創建された天台宗の寺院であった。その後、荒廃したが元禄の頃、鉄舟和尚が復興して臨済宗南禅寺派の寺となり今日に至っているという。



書院前の庭には白砂が広がり、東山に向かう斜面になった枯山水の庭で、後丘に萱葺き屋根の「芭蕉庵」と呼ばれる茶室がある。
芭蕉庵について、寺の由来書きによると、
元禄の昔、芭蕉は山城の東西を吟行した折、草庵で自適していた金福寺の住職・鉄舟和尚を訪ね、禅や風雅の道について語り合い親交を深めた。

後に和尚は、それまで無名であった庵を「芭蕉庵」と名付け、その高風をしのんでいた。
それから約70年後、蕪村が金福寺を訪れた頃には、すでに庵は荒廃していた。しかし村の童子や農夫はここを指して芭蕉庵と云った。芭蕉に私淑していた蕪村は、その荒廃を大変惜しみ、庵を再興し、俳文「洛東芭蕉庵再興記」をしたため、金福寺に納めた。これは彼の代表作の一つで、含蓄のある格調の高い名文として芭蕉の「幻住菴記」などと共に広く世に知られている。
と書かれている。
↓ 金福寺本堂
安永5年(1776)の「洛東芭蕉庵再興記」には
「四明山下の西南一乗寺村に禅房あり。金福寺といふ。土人口称して芭蕉庵と呼。……」
と出ている。
金福寺には「うき我を さびしがらせよ 閑古鳥」の芭蕉の句碑が建立されている。この句はいつ頃詠まれたものは調べてみた。
元禄2年、奥の細道の旅を終わった芭蕉は、9月、伊勢の遷宮参詣に行くのですが、その途中、曾良の伯父の寺、三重・長島の大智院に滞在して詠んだ発句「うきわれを さびしがらせよ 秋の寺」がある。
元禄3年から4年にかけて、芭蕉は膳所の義仲寺の草庵や幻住庵から
京都へ何回も往復している。その中に元禄4年4月18日から5月4日まで去来の庵、京都・落柿舎に滞在して『嵯峨日記』を書いている。その4月22日の項に次のように出ている。
長嘯隠士の曰く、客は半日の閑を得ればあるじは半日の閑を失ふと。素堂この言葉を
常にあはれぶ。予もまた、
うき我を さびしがらせよ 閑古鳥
とは、ある寺にひとり居て言ひし句なり。
暮れがた去来より消息す。
とある。
三重の大智院で読んだ句が推敲されて『嵯峨日記』に書かれている。この日、去来は留守だったようだ。1人落柿舎に居た芭蕉は義仲寺の草庵を思いながら推敲したのだろうか、それとも金福寺草庵の鉄舟和尚を思いながら推敲したのだろうか。いずれにせよ元禄3年から4年にかけて出来上がった句と思われる。
15時、今日の見学を終え、一乗寺駅へ戻る。宿泊地は大原の
民宿・三千院道、宝ヶ池駅前の上高野郵便局前までリムジンで迎えに来てくださるというので、叡山電鉄で宝ヶ池駅へ行く。


初めてのリムジンに乗せてもらい、宿に着いたのが16時10分。
民宿・三千院道は、大原の里に住み、この池を愛するご主人が経営する宿で、三千院にも近く、大原の里が満喫できる宿である。この地には珍しい
露天風呂もあり、地下鉄・国際会館駅から宿までリムジンで迎えてくれる宿せある。


荷物を置くなり、早速露天風呂に入った。今日のこの宿の投宿は私達のグループだけ、京都は12月に入ると客足が減り静になるとは聞いていたが、まさしくその通りだった。夕食時には庭のライトアップもしていただき、至れり尽くせりのサービスだった。
明日は最初に三千院を拝観します。
posted by 牡丹 at 14:00| 新潟

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