2005年10月31日

滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡J 宝泉院(2004.12.2)

 10時過ぎ、三千院を出て宝泉院へむかう。三千院御殿門前の道の奥突き当たりに勝林院がある。その前を左折して小川に沿って進み、右折したところに額縁庭園と五葉松で有名な宝泉院がある。
ほとんどの写真はクリックで拡大します。

宝泉院の山門
宝泉院の山門 

 院の縁起によると、比叡山に天台仏教を開いた最澄の高弟・円仁が唐での仏教修学を終えて帰国し、叡山に法要儀式に用いる仏教音楽「声明」を盛んにした。後、長和2年(1012)寂源が大原寺(勝林院)を創建し、法儀声明を盛んにした。そして平安末期には、大原は法儀声明の修学地として有名になったという。同院には声明の音律を調べる石盤が展示されている。
また宝泉院は大原寺(勝林院)の搭頭として平安末期頃からの歴史をもつという。

 書院は江戸時代元禄年間の再建で、廊下の天井は伏見城の遺構で、「血天井」と呼ばれている。自刃した徳川方武将の霊をなぐさめるため、自刃した床板を天井にして祀り、供養としているという。
ゴヨウマツ
← 樹齢7百年余の五葉松
 近江富士を型どる樹齢700年余の五葉松は、樹高11メートル、枝張りが南北11.5メートル、東西14メートルのほぼ扇形の樹冠をしている。根回りは4.25メートルもあるという。
京都市内にある著名な松、3本のうちの1本で、京都市指定天然記念物)

額縁庭園
 額縁庭園(盤桓園)
 客殿の西方、柱と柱の空間を額に見たてて観賞する。竹林の間より大原の里の風情を満喫できる。庭の名前は盤桓(ばんかん)園(立ち去りがたい意)と称する。なお、ここでは抹茶のサービスがある。

 以下は鶴亀庭園 
鶴亀庭園1鶴亀庭園2

鶴亀庭園3鶴亀庭園4

鶴亀庭園5 鶴亀庭園は江戸中期の作といわれ、部屋から格子ごしに観賞する。池の形が鶴、築山が亀、山茶花の 古木を蓬莱山とみる名園である。樹齢300年の沙羅双樹がたたずんでいる。

宝泉院の境内




宝泉院の境内 


宝泉院のを観て次は寂光院へ向かう。
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2005年10月30日

滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡I 三千院(2004.12.2)

 宿・三千院道を朝8時半出発、大原の里を散策しながら三千院の山門(御殿門)に着いたのが8時50分。(画像はクリックで拡大します)

存殿門 三千院は正式名称は三千院門跡、山号は魚山と称する天台宗五箇室門跡の一つであるという。(門跡寺院=皇子皇族が住職になられた寺院)

御殿門は2003年秋に修復が完成している 

 大原の地一帯は千年以上前から天台声明(仏教音楽)の修行の地として信仰を集めた場所だという。延暦7年(788)最澄(伝教大師)が比叡山延暦寺を開いた時に、東塔の南谷に自刻の薬師如来像を本尊とする円融房を開創したのがその起源という。
聚碧園
 「聚碧園」庭園

 「聚碧園」庭園は、小さな滝流れ、二段の池・築山と縁先手水鉢からの流れに伴う平庭からなり、築山ごしに有清園の杉木立や往生極楽院阿弥陀堂を望むことができる。(京都市指定名勝)

客殿からの聚碧園
 客殿からの聚碧園

 客殿には三千院に古来から伝わる古文書を観ることができ、また抹茶もいただくことができます。私達は聚碧園を観賞しながら抹茶をいただきました。

客殿から往生極楽院客殿から往生極楽院へ
      客殿からの往生極楽院          客殿から往生極楽院への参道
往生極楽院(本堂)← 往生極楽院阿弥陀堂
 往生極楽院(重文)は寛和2年(986)の建立で、恵心僧都が父母の菩提のために姉・安養尼とともに建立したと伝えられている。堂の内部の船底天井および壁画は極楽の花園の図が極彩色で画かれている。内陣には阿弥陀如来座像を中心に、左右には勢至菩薩、観世音菩薩の坐像を安置している。また、宸殿からこの堂に通じる所には「有清園」庭園がある。池泉迴回遊式庭園で、茶人・金森宗和の作庭という。

有清園の細波の滝有清園の延命其色多
      有清園の細波の滝              有清園の延命金色水
 有清園は、往生極楽院阿弥陀堂を中心に「細波の滝」の滝石組・中島を有する池等が設けられ杉の木立とスギゴケを中心とした特徴的な景観を作り出している。
朱雀門 朱雀門
 往生極楽院の南側にある朱塗りの小さな門で、その昔、極楽院を本堂としていた頃の正門にあたるという。藤原期の様式とも言われますが、江戸時代に再建されたものとか。
観音堂



観音堂 
 三千院の栞によると、25菩薩を配して補陀落浄土に模して石庭25菩薩慈眼の庭の横に観音堂が建立され、身の丈3メートルの金色の観音様が祀られているという。

金色不動堂金色不動堂前
    金色不動堂
 平成元年4月に三千院の祈願道場として建立された。本尊は智証大師の作と伝えられる金色不動明王で、秘仏となっているという。
三千院境内

← 三千院境内


三千院の境内を散策しながら次の宝泉院へと向かった。
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2005年10月28日

滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡H 金福寺(2004.12.1)

 圓光寺から徒歩10分足らずの所(一乗寺才形町)に金福寺がある。入り口は民家と見紛うようであった。(人物写真以外はクリックで拡大します)

 山号は佛日山、貞観6年(864)、慈覚大師が自作の聖観音菩薩像を祀り、国家安泰、衆生教済を念じて創建された天台宗の寺院であった。その後、荒廃したが元禄の頃、鉄舟和尚が復興して臨済宗南禅寺派の寺となり今日に至っているという。
金福寺の入り口金福寺

庭園(枯山水) 書院前の庭には白砂が広がり、東山に向かう斜面になった枯山水の庭で、後丘に萱葺き屋根の「芭蕉庵」と呼ばれる茶室がある。
 芭蕉庵について、寺の由来書きによると、
元禄の昔、芭蕉は山城の東西を吟行した折、草庵で自適していた金福寺の住職・鉄舟和尚を訪ね、禅や風雅の道について語り合い親交を深めた。

芭蕉庵 後に和尚は、それまで無名であった庵を「芭蕉庵」と名付け、その高風をしのんでいた。
それから約70年後、蕪村が金福寺を訪れた頃には、すでに庵は荒廃していた。しかし村の童子や農夫はここを指して芭蕉庵と云った。芭蕉に私淑していた蕪村は、その荒廃を大変惜しみ、庵を再興し、俳文「洛東芭蕉庵再興記」をしたため、金福寺に納めた。これは彼の代表作の一つで、含蓄のある格調の高い名文として芭蕉の「幻住菴記」などと共に広く世に知られている。
と書かれている。                   金福寺本堂
本堂 安永5年(1776)の「洛東芭蕉庵再興記」には
「四明山下の西南一乗寺村に禅房あり。金福寺といふ。土人口称して芭蕉庵と呼。……」
と出ている。

 金福寺には「うき我を さびしがらせよ 閑古鳥」の芭蕉の句碑が建立されている。この句はいつ頃詠まれたものは調べてみた。
 元禄2年、奥の細道の旅を終わった芭蕉は、9月、伊勢の遷宮参詣に行くのですが、その途中、曾良の伯父の寺、三重・長島の大智院に滞在して詠んだ発句「うきわれを さびしがらせよ 秋の寺」がある。
 元禄3年から4年にかけて、芭蕉は膳所の義仲寺の草庵や幻住庵から京都へ何回も往復している。その中に元禄4年4月18日から5月4日まで去来の庵、京都・落柿舎に滞在して『嵯峨日記』を書いている。その4月22日の項に次のように出ている。
  長嘯隠士の曰く、客は半日の閑を得ればあるじは半日の閑を失ふと。素堂この言葉を
  常にあはれぶ。予もまた、
    うき我を さびしがらせよ 閑古鳥
  とは、ある寺にひとり居て言ひし句なり。
  暮れがた去来より消息す。
とある。
 三重の大智院で読んだ句が推敲されて『嵯峨日記』に書かれている。この日、去来は留守だったようだ。1人落柿舎に居た芭蕉は義仲寺の草庵を思いながら推敲したのだろうか、それとも金福寺草庵の鉄舟和尚を思いながら推敲したのだろうか。いずれにせよ元禄3年から4年にかけて出来上がった句と思われる。

 15時、今日の見学を終え、一乗寺駅へ戻る。宿泊地は大原の民宿・三千院道、宝ヶ池駅前の上高野郵便局前までリムジンで迎えに来てくださるというので、叡山電鉄で宝ヶ池駅へ行く。
リムジンで宿へ民宿・三千院道
初めてのリムジンに乗せてもらい、宿に着いたのが16時10分。
民宿・三千院道は、大原の里に住み、この池を愛するご主人が経営する宿で、三千院にも近く、大原の里が満喫できる宿である。この地には珍しい露天風呂もあり、地下鉄・国際会館駅から宿までリムジンで迎えてくれる宿せある。
露天風呂ライトアップ

荷物を置くなり、早速露天風呂に入った。今日のこの宿の投宿は私達のグループだけ、京都は12月に入ると客足が減り静になるとは聞いていたが、まさしくその通りだった。夕食時には庭のライトアップもしていただき、至れり尽くせりのサービスだった。

明日は最初に三千院を拝観します。
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2005年10月26日

滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡G 圓光寺(2004.12.1)

 芬陀院の拝観を終え、京阪東福寺駅から乗り、次の八条駅で特急に乗り換え、終点・出町柳駅に行く。ここで昼食をとる予定だったが、生憎食堂は休み。仕方なく叡山線で一乗寺駅まで行き、駅近くの軽食堂で昼食をとる。ここからは徒歩で圓光寺に向かった。一乗寺駅から踏切を渡り、東方向へ進み白川通りを横断する、案内板に従って左折すると右側に圓光寺がある。圓光寺着は13時50分。
圓光寺山門慶長6年(1601)徳川家康が国内教学発展のため三要元佶(げんきつ)を招き、伏見に圓光寺を建立し、学校としたという。(元佶禅師は郷里・備前三岳寺や駿府圓光寺の開山)
 その後、圓光寺は相国寺山内に移り、更に寛文7年(1667)現在の一乗寺小谷町に移された。明治維新で荒廃したが、尼衆専門道場として再興されたという。現在は南禅寺派研修道場だとか。
 圓光寺の山号は瑞巌山、本尊は千手観音で運慶作と伝えられる。同寺には、開山・元佶禅師像、応挙作の竹林図屏風六曲、近世初期製作の木製活字五万個があり、いずれも重文の指定されている。
襖絵「四季草花図」渡辺章雄画伯水琴窟
    渡辺章雄画伯の襖絵「四季草花図」   水琴窟
 山門を入ると先ず渡辺章雄画伯の襖絵「四季草花図」が目に入る。渡辺章雄画伯は川端龍子賞大賞を受賞した平成琳派の第一人者で琳派彩還をテーマに描く画伯であるという。
 そして庭に入ると水琴窟がある。ここの水琴窟はダブルに設置されていて、備え付けの竹筒を通して聞く音色は何とも例えようが無い素晴らしさである。
 圓光寺(円光寺)の庭園は「十牛の庭」と呼ばれ、池泉回遊式の庭園である。紅葉は本堂からの眺めは最高である。また同庭園には栖龍池と呼ばれる洛北最古の池がある。

以下「十牛の庭」の紅葉である。
十牛の庭1十牛の庭2

十牛の庭3十牛の庭6十牛の庭4

墓地の紅葉竹林と黄葉
 十牛の庭を回ると奥の山へ上る道がある。山の上には徳川家康公の墓碑がある。また途中には竹林があり、山の上から見る墓地のモミジの大木の紅葉が素晴らしかった。
 円光寺は紅葉、黄葉も素晴らしいのですが、それと竹林の緑のコントラストもまた素晴らしいものでした。

14時30分、圓光寺を辞し次の金福寺へ向かった。
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2005年10月24日

「つれづれに」のホームページ更新

 「つれづれに」のホームページ更新しました。
内容は、10/15,16日に行われた新潟良寛研究会の研修旅行記です。研修地は福島県西会津町の松尾神社に遺る良寛筆の神号「松尾大明神」の扁額、会津柳津町の福満虚空蔵尊・圓蔵寺に良寛さまが旅して詠んだ五言三十句の長詩と良寛像、上杉景勝と共に越後人が大勢移住したという米沢の上杉藩遺蹟、良寛さまが名君・上杉鷹山に会うために越後米沢街道を行脚した時詠んだ漢詩「米沢道中」「宿玉川宿」の現地研修です。
写真もサムネールを使って沢山入れてありますので是非ご覧下さい。
ホームページのアドレスは
  http://www.geocities.jp/my_ryoukan/aizu/aizu-top_nisiaizy.html
です。
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2005年10月14日

滋賀・京都の紅葉と芭蕉史蹟F 芬陀院(雪舟寺)12月1日

 六波羅門を出て日下門まで戻り、左折すると中門の手前左側に東福寺の塔頭の一つ、芬陀院(ふんだいん)がある。
  塔頭(たっちゅう)=禅宗で大寺の高僧が死んだ後、その弟子が師徳を慕って
          塔のほとりに構えた房舎。(広辞苑より)

芬陀院・山門
芬陀院(雪舟寺)の山門 →
 芬陀院は後醍醐天皇の元享年間(1321〜1322)に関白・一条内経が創立、定山祖禅和尚(東福寺開山聖一国師の法弟)が開山した寺で、爾来今日に至るまで一条家の菩提所になっているという。堂宇は元禄、宝暦年間に焼失したが、宝暦の火災後、桃園天皇の皇后・恭礼門院の御所の一棟を移築し、明治32年、更に改築されたのが現在の建物であるという。現在の唐門は恭礼門院御所からの移築であるという。ここの庭には寛正、応仁(1460〜1468)の頃、雪舟が作庭したと伝えられる「鶴亀の庭」があることから、別名「雪舟寺」とも呼ばれる。
鶴亀の庭
← 雪舟作庭の「鶴亀の庭」
 雪舟が備中国から来てこの寺に起居していた頃、時の関白・一条兼良の好みで作庭したという。しかし、元禄と宝暦の火災や長期間の放置で荒廃していたが、昭和12年、32年の修復で現在の庭になったという。雪舟作庭としては近畿地方唯一の庭という。


東庭と茶室・図南亭 図南亭からの眺め
     ↑ 東庭と茶室・図南亭         ↑ 図南亭から東庭の眺め
 江戸時代の関白・一条昭良(1605年−1672年)は茶道を愛好し「茶関白一条恵観」と呼ばれ、東福寺参詣の際には芬陀院の茶室・図南亭で茶を楽しんだという。図南亭も宝暦5年の火災で焼失したが、昭和45年の恵観公三百年忌を期に復元され、恵観堂と称することになったという。また西側に公が愛好した曲玉の手洗鉢と屑屋形灯籠が残されているという。

芬陀院を拝観後、次の目的地、圓光寺へ向かう。
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2005年10月12日

滋賀・京都の紅葉と芭蕉史蹟E 東福寺(2004.12.1)

 今日から紅葉を求めて京都に入る。尊初の目的地は東福寺。ここの紅葉は超有名で混雑が予想されるので、朝8時半、少し早目に出発にした。
石山温泉「ぼだい樹」前で

← 出発前、宿泊した石山温泉旅館「ぼだい樹」前で記念撮影。
(今回旅したメンバー)

JR線で京都駅へ。京都損内は、駅から宿へ、宿から宿への手回り品の当日配送が出来るので、京都駅でそれを利用して身揃になって東福寺駅に向かう。10時少し前に東福寺に着いたたが、もう大勢の人出であった。やはり東福寺の人気は高い。
(以降の写真はクリックで拡大します)

 東福寺は九条道家が建立によるもので、19年をかけて建長7年(1255)に落成した。臨済宗 東福寺派大本山である。奈良の東大寺と興福寺の各1字をとって寺名としたと伝えられている。
 仏殿から経堂、方丈の間を通り、開山堂に至る間は廊下で結ばれ、途中に洗玉澗という渓谷が横切っているが、そこには通天橋が架けられている。また本堂の前には三門があり孫宝に指定されている。

  ↓ 臥雲橋から通天橋を望造。    東福寺は北門から入り、臥雲橋を渡ったのが9 臥雲橋から通天橋を望造
時55分。日下門から境内に入る。
洗玉澗の紅葉1 洗玉澗の紅紅葉2
洗玉澗の紅葉アラカルト 素晴らしい紅葉だ。
洗玉澗の紅葉3 洗玉澗の紅葉4 洗玉澗の紅葉5

洗玉澗の紅葉6 洗玉澗の紅葉8 洗玉澗の紅葉7

開山堂
← 開山堂
別名常楽庵。屋上に閣を持つ類例を見ない開山堂で、祀堂には開山国師像を安置している。上層伝衣閣に中央に阿弥陀、右に薬師、左に布袋像を祀っている。

方丈・南庭 方丈・北庭
  ↑ 方丈の南庭(禅院式枯山水)      ↑ 方丈の北庭(小市松模様)
 方丈庭園は昭和庭園の権威・重森三玲氏の作庭で、東西南北に庭を配した「八相庭」である。
本堂(仏殿)
← 本堂(仏殿)
 この寺院は創建以来、何回も火災にあって焼失している。直近では明治14年12月に、仏殿、方丈、庫裡を焼失したが、仏殿は昭和9(1934)年に落成、方丈は明治23年に、庫裡は明治43年に再建されている。

三門
← 三門
 応永年間(1394−1428)の造営とも、それ以前の造営とも言われ、唐様、和様、天竺様の建築様式を取り入れているといわれ、禅宗寺院の三門では現存最古のものという。国宝に指定されている。現在は3月14日〜16日の涅槃会にのみ公開されている。

東福寺の拝観を終え、11時10分、六波羅門から出て、芬陀院(雪舟寺)へ向かう。
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2005年10月10日

滋賀・京都の紅葉と芭蕉史蹟D 石山寺(2004.11.30)

 幻住庵から石山寺に着いたのが14時過ぎだった。(2004.11.30)
(画像はすべてクリックすると拡大します)

 石山寺は紫式部が世界最初の長編小説『源氏物語』の構想を練った寺として有名である。また昔から近孫八景「石山の秋月」で知らる月の名所である。芭蕉も屡ここを訪れて句を詠んでいる。芭蕉の句に
   石山の 石にたばしる 霰哉
   曙は まだ紫に ほととぎす
がある。
 この寺の寺名は石光山石山寺、真言宗のお寺である。天平1贈年(747)聖武天皇の勅願により、良辨僧正により開基されたという。西国巡礼13番の札所である。本尊は如意輪観世音菩薩で「安産・厄よけ・縁結び・福徳」の聖徳太子による秘・であるという。
 広大な境内には日本唯一の巨大な天然天然記念物・硅灰石(石灰岩が変質して出来たもの)があることでも有名である。
石山寺・東大門← 石山寺・東大門
 建久元年(1190)源頼朝の寄進により建立され、その後慶長年間に大修理が行われている。
 この門は入母屋造り、本瓦葺の建物で、左右に仁族像をおくことから「仁族門」とも存ばれている。仁族様は右が阿像、左が吽像である。
(国指定重要文化財) 公風園・白耳亭

公風園・白耳亭 →
 東大門から入り参道を進むと、左側に公風園・白耳亭がある。ここの庭は上も下も紅葉が見事であった。 石山寺参道





← 石山寺参道を真直ぐ進むと受付に出る。

石山寺受付


ここが受付 →
料金を払って拝観コースを辿る。

石山寺本堂



← 石山寺本堂
 聖武天皇の勅願によって東大寺の良辨によって開創された石山寺は、朝廷の厚い信仰を受け、延喜16年(916)年贈月、宇多法皇が行幸して以来、貴族社会では石山詣でが盛んになったという。
本堂の源氏の間 紫式部
↑ 『源氏物語』の構想を練った「源氏の間」  ↑ 「源氏の間」の紫式部像
 『源氏物語』16帖(関屋)には「……関(逢坂の関)入る日も、この・(光源氏)、石山(石山寺)に存願はたしに詣でたまひけり。……」と出ており、31帖では鬚黒大将が石山寺の観音の霊験により玉鬘への思いを成就させたことなどが書かれています。紫式部は寛弘元年(1004)に7日間参籠したと伝えられているそうです。
天然記念物・硅灰石
← 天然記念物の硅灰石と多宝塔
この硅灰石は日本唯一の巨大な天然記念物です。多宝塔をバックに紅葉も映える撮影ポイントです。
多宝塔
多宝塔 →
 建久5年(1194)源頼朝が寄進したと伝えられている。二重の塔では日本最古の多宝塔で、郵便切手の意匠になっている。(国宝)

鐘楼
← 鎌・時代後期の造営といわれる鐘楼
 (国指定重要文化財)

存影堂と毘沙門堂




存影堂(左)と毘沙門堂(右) →
存影堂は室町中期の造営で滋賀県指定文化財。毘沙門堂の毘沙門天立像は平安時代の作で国指定重要文化財。

月見亭から← 月見亭から瀬田の唐橋方面を望む
 近孫八景「石山の秋月」で有名な所である。石山寺は昔から月の名所として知られており、平安貴族とその婦人たちの遊楽や参籠の地になっていたという。その頃は京都から逢坂の関を越えて琵琶湖へ行き、そこから舟で瀬田川を下って石山まで14時間の旅であったという。京都を早朝に発っても夕暮れにしかここに着けない長旅であった。苦労した分、ここからの月の眺めは素晴らしく、旅の疲れを癒してくれたことであろう。

以下は石山寺境内の紅葉、黄葉、・葉の数々

石山寺の紅葉 石山寺の硅灰石と・葉>

石山寺の紅葉と黄葉 石山寺の黄葉

 石山寺の拝観で旅行第1日目の行程が終わった。石山寺からは徒歩で宿に向かう。今回の旅で唯一の温泉旅館「石山温泉・ぼだい樹」に着いたのが16時過ぎ、ゆっくり温泉につかり、夕食は近孫牛のスキヤキにしてもらった。明日からはいよいよ京都の紅葉見物になる。最初の目的地は東福寺である。
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2005年10月06日

滋賀・京都の紅葉と芭蕉史蹟C 幻住庵(2004.11.30)

 膳所で食事をした後、京阪膳所駅から電車に乗り、唐橋前に下車、タクシーで「瀬田の唐橋」へ行き、唐橋公園の芭蕉句碑「五月雨に」を見る予定にしていた。ここには芭蕉が貞享5年の夏、瀬田川の蛍船で遊んで詠んだという「五月雨に かくれぬものや 瀬田の橋」の句碑がある。しかし、運転手さんが分からないというので、唐橋付近を探し回ってもらったが、見つけることが出来ず、諦めて幻住庵へ向かう。大津市国分の幻住庵に着いたのは13時20分。
奥の細道」以降、幻住庵に入るまでの芭蕉の足跡を見ると、
幻住庵(滋賀・大津)の門← 幻住庵の門
元禄2年(1689)8月21日 大垣に着き
          「奥の細道」の旅を終わる。
 9月 伊勢の遷宮を見て、故郷・伊賀上野へ帰る。
 12月 京都で去来に逢い、膳所の義仲寺に行き
      そこで越年。
元禄3年 正月3日 伊賀上野へ戻る。
 3月 再び義仲寺の草庵へ。
 4月 幻住庵に入る。
 6月 京都へ行き、すぐ戻って、幻住庵で「幻住菴記」の執筆に入る。
 8月 幻住庵から義仲寺に居を移し、『幻住菴記』を完成させる。
 これからも分かるように、芭蕉は本当に大津が好きだったようである。 幻住庵

幻住庵の内部
← 平成3年に再建された現在の幻住庵





↑現在の幻住庵内部

 大津の人達は芭蕉に対して援助を惜しまなかったようである。膳所藩士で蕉門の俳人の菅沼曲水も、芭蕉のために国分山中腹の叔父の草庵を修理して用意したという。それが幻住庵である。芭蕉はこの幻住庵で『幻住菴記』を執筆した。
幻住庵跡


幻住庵跡を示す石柱 →

 芭蕉が住んだ頃の幻住庵は現在の幻住庵より10メートル程下がった所に建てられていた。現在、そこには「史蹟 幻住庵跡」の石柱が建てられている。

『幻住菴記』の陶板碑
『幻住菴記』の冒頭部分
   ↑ 『幻住菴記』全文の陶板碑          ↑ 『幻住菴記』の冒頭部分
 『幻住菴記』は「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。」ではじまり、跋は「先づ頼む 椎の木も有り 夏木立」という有名な句で終わる。なお、ここにはその『幻住菴記』の跋「先づ頼む」の句碑が建てられている。
『幻住菴記』は『奥のほそ道』に次ぐ名文と云われている。
 年譜を見ると、芭蕉は幻住庵で『幻住菴記』執筆した後、住み慣れた義仲寺に居を移して『幻住菴記』を完成させている。
とくとくの清水
← 今も湧き出ている「とくとくの清水」
 幻住庵から少し下ったところに「とくとくの清水」がある。『幻住菴記』に「たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ。とくとくの雫を侘びて……」とあるように、この清水を生活用水に使っていた。今も清水は涸れることなく湧き出ていて、遊歩道の脇に流れ出ている。
 この場所は林の中にあって、昼なお暗く静寂そのもので、ヘビでも住んで居そうな感じの場所であった。
句灯柱
遊歩道の句灯柱 →
 幻住庵の遊歩道にはこのような句灯柱が10基建てられている。

 芭蕉は幻住庵からの眺望や雰囲気を「美景物として足らずといふことなし」と『幻住菴記』で誉めそやしている。
 年譜を見ると、芭蕉は幻住庵で『幻住菴記』執筆した後、住み慣れた義仲寺に居を移して『幻住菴記』を完成させている。
 これは私の勝手な想像であるが、芭蕉は住みなれた義仲寺で『幻住菴記』の推敲を重ねたのではないか。真偽の程は分からないが、幻住庵付近にはマムシがいて芭蕉はここはあまり好きでなかったという話を聞いたことがある。それで義仲寺で最後の推敲をし、そして完成させたのではないだろうか。私の勝手な推測である。


幻住庵の見学が終わったのが14時少し前、
待たせていたタクシーに乗って次の目的地、石山寺に向かった。
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