めっきり寒くなり、あちこちから初雪の便りが聞かれます。新潟では風邪が流行っているようです。昨日の例会は風邪により欠席された方が多かったようです。年末に向かって多忙な季節、お互いに自愛して今年の冬を乗り切りましょう。
11月のホームページを更新しました。
アップしたページは
@ 良寛会ニュース
良寛帰郷「寛政4年3月」説が報道されたこと他。
A 詩歌講座は「久方の 月の光が清ければ ……」
貞心尼の仏道の悩みについて良寛さまが贈った書簡から。
B 良寛関係記事
良寛さまが訪れたという須磨寺、綱敷天神について。
以上のページをアップしました。ご覧になっていただければ幸いです。
2005年11月19日
2005年11月17日
甲田ひろみ「薬草染 手織り作品展」開催中
新潟良寛研究会にはいろいろな特技をお持ちの方が加入しておられます。そんな中のお一人、甲田ひろみさんの「薬草染 手織り作品展」が新潟大和で開かれています。

甲田さんは、草木染をなさっていたのですが、1988年に富山の廣貫堂から薬草の提供を受け、その染色の素晴らしさの虜になり、以後薬草染手織を続けられているそうです。
甲田さんのメッセージには「薬草染は染の原点と言われております。真白な糸に自然から戴く温もりと優しさの色彩を糸に託して、現代感覚で日々創作しております。そして作品は作り人と大勢の方々との出逢いと、心と心を結んでくれております。」と書いておられます。
以下、素人写真ですので残念ながら薬草染の軟らかな温かみのある色合いは出せませんでした。一度会場に足を運んでみては如何でしょうか。






11月16(水)〜22日(火)まで、10時〜19時まで新潟大和6階アートサロンで開催されています。(最終日は16時迄)
甲田さんは、草木染をなさっていたのですが、1988年に富山の廣貫堂から薬草の提供を受け、その染色の素晴らしさの虜になり、以後薬草染手織を続けられているそうです。
甲田さんのメッセージには「薬草染は染の原点と言われております。真白な糸に自然から戴く温もりと優しさの色彩を糸に託して、現代感覚で日々創作しております。そして作品は作り人と大勢の方々との出逢いと、心と心を結んでくれております。」と書いておられます。
以下、素人写真ですので残念ながら薬草染の軟らかな温かみのある色合いは出せませんでした。一度会場に足を運んでみては如何でしょうか。






11月16(水)〜22日(火)まで、10時〜19時まで新潟大和6階アートサロンで開催されています。(最終日は16時迄)
2005年11月15日
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡24 終わりに (2004.12.04)
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡を訪ねる旅シリーズもようやく完結しました。これから出かける方の参考にして頂きたいと思い、11月20日までに仕上げようと思って取り組んだのですが、やっと間に合いホットしています。それにしても京都の紅葉は最高でした。又行きたくなりました。
今回の旅は11月29日の夜新潟を出発して12月4日まで、車中一泊を含めて五泊五日の旅行でした。
石山温泉に宿泊。
12月1日 京都へ入り、東福寺、芬陀院、圓光寺、金福寺を拝観して
大原の民宿・三千院道に宿泊。
2日 三千院、宝泉寺、寂光院、渡月橋、嵯峨野の竹林、落柿舎、宝筐院を回って
民宿・一休に宿泊。
3日 直指庵、祇王寺、二尊院、常寂光寺、鹿王院、光悦寺を拝観して、
湖水荘に宿泊。
4日 南禅寺、金地院、永観堂、真如堂を拝観して帰途につく。
という旅で、5日間に22寺舎を見学、拝観しました。
12月に入ると京都の観光客は少なくなると聞いていましたが、その通り混雑することもなく、ゆっくり回ることが出来ました。この年の紅葉が一週間位遅れたことにも助けられ、最高の紅葉見物が出来ました。木々の紅葉はもとより、散りモミジの絨緞も併せて観るなら12月初旬に限ると思いました。
昨今のテレビ報道で京都の紅葉が取り上げられています。今年の色づきは少し悪いように報道されていますが、これからどうなるでしょうか。
今回の旅で撮った写真は、デジカメで290枚、フィルムカメラ(リバーサル)185枚でした。カメラはデジカメがキャノンPowerShot S30、フィルムカメラはニコンF80sを使用しました。
また行ってみたい京都の紅葉でした。
今回の旅は11月29日の夜新潟を出発して12月4日まで、車中一泊を含めて五泊五日の旅行でした。
(寺名などををクリックするとそのページに飛びます)
11月30日 はじめに、滋賀県の金剛輪寺、義仲寺、幻住庵、石山寺を回り石山温泉に宿泊。
12月1日 京都へ入り、東福寺、芬陀院、圓光寺、金福寺を拝観して
大原の民宿・三千院道に宿泊。
2日 三千院、宝泉寺、寂光院、渡月橋、嵯峨野の竹林、落柿舎、宝筐院を回って
民宿・一休に宿泊。
3日 直指庵、祇王寺、二尊院、常寂光寺、鹿王院、光悦寺を拝観して、
湖水荘に宿泊。
4日 南禅寺、金地院、永観堂、真如堂を拝観して帰途につく。
という旅で、5日間に22寺舎を見学、拝観しました。
12月に入ると京都の観光客は少なくなると聞いていましたが、その通り混雑することもなく、ゆっくり回ることが出来ました。この年の紅葉が一週間位遅れたことにも助けられ、最高の紅葉見物が出来ました。木々の紅葉はもとより、散りモミジの絨緞も併せて観るなら12月初旬に限ると思いました。
昨今のテレビ報道で京都の紅葉が取り上げられています。今年の色づきは少し悪いように報道されていますが、これからどうなるでしょうか。
今回の旅で撮った写真は、デジカメで290枚、フィルムカメラ(リバーサル)185枚でした。カメラはデジカメがキャノンPowerShot S30、フィルムカメラはニコンF80sを使用しました。
また行ってみたい京都の紅葉でした。
長い間お付合い下さいまして有難うございました。
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡23 真如堂 (2004.12.04)
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡を訪ねる旅も真如堂が最後。ここも素晴らしい紅葉でした。下の写真を見て下さい。真如堂に着いたのが11時30分。京都の紅葉の見納めに相応しい色を見せてくれていました。(写真をクリックすると拡大します)
真如堂の正式名称は鈴聲山真正極楽寺、天台宗の寺院です。「正真正銘の極楽の寺である」という意味だそうで、一般に呼ばれている「真如堂」は、もともとは本堂の呼び名だったという。永観2年(984)、比叡山の戒算上人が、比叡山常行堂に安置された本尊・阿弥陀如来(慈覚大師作)を藤原詮子の離宮があった現在の地に移して安置したのが、真如堂の始まりという。応仁の乱のあと各所を転々とするが、元禄6年(1693) 東山天皇の勅により、現在の地に復される。
← 真如堂の本堂と菩提樹
現在の本堂は宝永2年(1717) 二十八世住持・尊通の勧進によって再建された。三重塔は文化14年(1817)の竣工だという。
真如堂(本堂)に向かって右手前に菩提樹(シナノキ科)の大木がある。お釈迦さまが菩提樹の下で悟りを開かれたといわれているが、正確にはお釈迦さまが悟りを開いたのは、別物のクワ科の印度菩提樹(天竺菩提樹)の樹の下である。ただ、印度菩提樹は日本では温室でしか育たないため、日本の寺院では中国原産のシナノキ科の菩提樹が植えられたものであろう。シューベルトの歌曲で有名な菩提樹もリンデンバウムまたはリンデンと呼ばれ、同じ属の別種である。真如堂の菩提樹の種が残っていないかと辺りを探してみたが、きれいに掃除されていて一粒も落ちてはいなかった。新潟県でも新発田市に良寛さま手植えの菩提樹があるが、この菩提樹は種を植えてもなかなか発芽しない。私は3年続けて植えたが3年目に植えた種から、翌々年になってやっと一本芽が出て、2年目の今年は10センチ程の高さに育っている。ちなみに、菩提樹の花言葉は「夫婦の愛、熱愛、結ばれる愛、結婚」だそうである。






← 真如堂の三重塔
旅の記念に真如堂で御飯茶碗を買い求めました。この頃は茶碗に書かれた「真如堂」の文字を見て、あの真っ赤なモミジを思い出しているこの頃です。 ↓




真如堂の素晴らしい紅葉を最後に私達の滋賀・京都の旅は終わりました。12時過ぎ、京都駅へ向かいました。この日の観光タクシーは「ゆうゆう京都」を利用させていただきました。運転手さんは片山さんで、とても親切で案内も的確でとても楽しい旅でした。永観堂や真如堂では、わざわざモミジの種を拾ってきて下さいました。その種も芽が出て今は15センチ位に育って、そろそろ紅葉が始まる頃です。お世話になった運転手さんとも京都駅で別れました。有難うございました。
京都駅で昼食を済ませ、時間があったので駅ビルに上ったらクリスマスのデコレーションが飾ってありました。12月、クリスマスの月ですものね。14時過ぎ、JRで帰途についたのだった。 (完)
真如堂の正式名称は鈴聲山真正極楽寺、天台宗の寺院です。「正真正銘の極楽の寺である」という意味だそうで、一般に呼ばれている「真如堂」は、もともとは本堂の呼び名だったという。永観2年(984)、比叡山の戒算上人が、比叡山常行堂に安置された本尊・阿弥陀如来(慈覚大師作)を藤原詮子の離宮があった現在の地に移して安置したのが、真如堂の始まりという。応仁の乱のあと各所を転々とするが、元禄6年(1693) 東山天皇の勅により、現在の地に復される。
現在の本堂は宝永2年(1717) 二十八世住持・尊通の勧進によって再建された。三重塔は文化14年(1817)の竣工だという。
真如堂(本堂)に向かって右手前に菩提樹(シナノキ科)の大木がある。お釈迦さまが菩提樹の下で悟りを開かれたといわれているが、正確にはお釈迦さまが悟りを開いたのは、別物のクワ科の印度菩提樹(天竺菩提樹)の樹の下である。ただ、印度菩提樹は日本では温室でしか育たないため、日本の寺院では中国原産のシナノキ科の菩提樹が植えられたものであろう。シューベルトの歌曲で有名な菩提樹もリンデンバウムまたはリンデンと呼ばれ、同じ属の別種である。真如堂の菩提樹の種が残っていないかと辺りを探してみたが、きれいに掃除されていて一粒も落ちてはいなかった。新潟県でも新発田市に良寛さま手植えの菩提樹があるが、この菩提樹は種を植えてもなかなか発芽しない。私は3年続けて植えたが3年目に植えた種から、翌々年になってやっと一本芽が出て、2年目の今年は10センチ程の高さに育っている。ちなみに、菩提樹の花言葉は「夫婦の愛、熱愛、結ばれる愛、結婚」だそうである。
それはともかく真如堂の紅葉をお楽しみ下さい。
← 真如堂の三重塔
旅の記念に真如堂で御飯茶碗を買い求めました。この頃は茶碗に書かれた「真如堂」の文字を見て、あの真っ赤なモミジを思い出しているこの頃です。 ↓

真如堂の素晴らしい紅葉を最後に私達の滋賀・京都の旅は終わりました。12時過ぎ、京都駅へ向かいました。この日の観光タクシーは「ゆうゆう京都」を利用させていただきました。運転手さんは片山さんで、とても親切で案内も的確でとても楽しい旅でした。永観堂や真如堂では、わざわざモミジの種を拾ってきて下さいました。その種も芽が出て今は15センチ位に育って、そろそろ紅葉が始まる頃です。お世話になった運転手さんとも京都駅で別れました。有難うございました。
京都駅で昼食を済ませ、時間があったので駅ビルに上ったらクリスマスのデコレーションが飾ってありました。12月、クリスマスの月ですものね。14時過ぎ、JRで帰途についたのだった。 (完)
2005年11月14日
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡22 永観堂 (2004.12.04)
永観堂の正式名称は聖衆来迎山無量寿院禅林寺で、第七世法主・永観律師にちなみ永観堂と称されるようになったという。仁寿3年(853)空海の弟子・真紹が藤原関雄の故居を買い取り、禅林寺の敷地に当てる。創建は貞観5年(863) 清和天皇より鎮護国家の道場として勅額を賜り、「禅林寺」と名づけられたことによるという。本尊は木造・阿弥陀如来立像(みかえり阿弥陀)で重要文化財。
← 阿弥陀堂(本堂)
阿弥陀堂には「みかえり阿弥陀如来」を安置している。この阿弥陀堂の奇伝によれば、慶長12年(1607)豊臣秀頼の命により浪華四天王寺から移築されたとある。この堂の内陣中央に宮殿があり本尊が安置されている。この本尊は77センチの小像であるが、「みかえり阿弥陀如来」と昔から人々に親しまれている。七代住職・永観律師の念仏行道に際して仏が左へみかえる瑞相をあらわされ、そのまま元に復しなかった霊像と伝えられる。この「みかえる」お姿は、仏の方から人々の救済の働きかけを示された動的な来迎仏で、壇上より降り立って左辺しながら先行された仏の姿は、慈悲をあらわし衆生済度の教えが凝縮されている。私たちはこのお姿から、他者への思いや自己への反省を学ばなければならない。尊像の製作年代はおよそ鎌倉時代初期という。(永観堂の案内板より)
(「みかえり阿弥陀如来」のお姿は永観堂のホームページをご覧下さい。)


↑ 放生池 ↑ 放生池


↑ 参道 ↑ 釈迦堂(方丈)前庭










↑ 多宝塔
← 境内の滝
モミジの永観堂と言われるだけあって、素晴らしい紅葉だった。11時20分、永観堂の拝観を終わり真如堂へ向かう。
阿弥陀堂には「みかえり阿弥陀如来」を安置している。この阿弥陀堂の奇伝によれば、慶長12年(1607)豊臣秀頼の命により浪華四天王寺から移築されたとある。この堂の内陣中央に宮殿があり本尊が安置されている。この本尊は77センチの小像であるが、「みかえり阿弥陀如来」と昔から人々に親しまれている。七代住職・永観律師の念仏行道に際して仏が左へみかえる瑞相をあらわされ、そのまま元に復しなかった霊像と伝えられる。この「みかえる」お姿は、仏の方から人々の救済の働きかけを示された動的な来迎仏で、壇上より降り立って左辺しながら先行された仏の姿は、慈悲をあらわし衆生済度の教えが凝縮されている。私たちはこのお姿から、他者への思いや自己への反省を学ばなければならない。尊像の製作年代はおよそ鎌倉時代初期という。(永観堂の案内板より)
(「みかえり阿弥陀如来」のお姿は永観堂のホームページをご覧下さい。)
以下、モミジの永観堂の写真です
↑ 放生池 ↑ 放生池
↑ 参道 ↑ 釈迦堂(方丈)前庭
← 境内の滝
モミジの永観堂と言われるだけあって、素晴らしい紅葉だった。11時20分、永観堂の拝観を終わり真如堂へ向かう。
2005年11月13日
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡21 金地院 (2004.12.04)
金地院は応永年間(1394〜1428)に足利義持が北山に開創した禅寺で、徳川家康の信任厚かった崇伝師が慶長10年(1605)に南禅寺塔頭に移建したという。
← 金地院の大方丈(パンフレットより)
方丈は大方丈と方丈があるが、その内、方丈は慶長16年(1611)伏見桃山城の遺構を移築したと伝える(重要文化祭)。仏間には本尊・地蔵菩薩(鎌倉時代の仏師・快慶作)を安置している。


← 明智門からの参道
↓ 東照宮の前

← 金地院の東照宮
金地院の境内には東照宮が建てられている。東照宮は崇伝師が徳川家康の遺嘱により、家康の遺髪と念持物とを奉載して寛永5年(1628)に造営したものという。創建当時は諸堂も完備し、輪奐の結構さは日光の東照宮に比すべきものであったという。

大方丈前の鶴亀の庭園は寛永7年(1630)小堀遠州の作。全面の白砂は宝船を象徴すると同時に海洋を表わし、長方形の大きな平面石は東照宮の遥拝石であり、その右が鶴島、左が亀島である。中間に群仙島を象る石を点在させ、前方には崖地を利用して蓬莱石組みを立てる。背景の大苅込は、幾重にも折り重なる山々で深山幽谷を現すという。

茶室八窓席及び小書院の襖絵「猿猴捉月図」と「老松」の拝観は予約が必要で、私達は観光タクシーさんの方から予約して頂いていた。なお、ここは撮影禁止なので、写真は戴いた資料から引用した。

← 茶室八窓席(パンフレットより
茶室八窓席は寛永4年(1627)小堀遠州の作。三畳台目の席で、京都三名席の一つという。にじり口に外縁のあること、茶道口の高いことがこの席の特徴だという。(重文)

方丈は大方丈と方丈があるが、その内、方丈は慶長16年(1611)伏見桃山城の遺構を移築したと伝える(重要文化祭)。仏間には本尊・地蔵菩薩(鎌倉時代の仏師・快慶作)を安置している。
金地院の明智門 →
明智門は天正10年(1582)明智光秀が母の菩提のため、黄金千枚を寄進して大徳寺に建立したものを、明治初年に金地院に移建したものという。← 明智門からの参道
↓ 東照宮の前
金地院の境内には東照宮が建てられている。東照宮は崇伝師が徳川家康の遺嘱により、家康の遺髪と念持物とを奉載して寛永5年(1628)に造営したものという。創建当時は諸堂も完備し、輪奐の結構さは日光の東照宮に比すべきものであったという。
弁天池と大方丈 →
元東照宮と開山堂の中間(現在は竹林)に池庭があり、中島に弁財天が祀られていたのを明治初年そのまま移したものが現在の弁天池という。(背後の建物は大方丈)大方丈前の鶴亀の庭園は寛永7年(1630)小堀遠州の作。全面の白砂は宝船を象徴すると同時に海洋を表わし、長方形の大きな平面石は東照宮の遥拝石であり、その右が鶴島、左が亀島である。中間に群仙島を象る石を点在させ、前方には崖地を利用して蓬莱石組みを立てる。背景の大苅込は、幾重にも折り重なる山々で深山幽谷を現すという。
↑ 鶴亀の庭園(写真4枚の合成)
茶室八窓席及び小書院の襖絵「猿猴捉月図」と「老松」の拝観は予約が必要で、私達は観光タクシーさんの方から予約して頂いていた。なお、ここは撮影禁止なので、写真は戴いた資料から引用した。
← 茶室八窓席(パンフレットより
茶室八窓席は寛永4年(1627)小堀遠州の作。三畳台目の席で、京都三名席の一つという。にじり口に外縁のあること、茶道口の高いことがこの席の特徴だという。(重文)
小書院の襖絵 →
小書院の襖絵は長谷川等伯の「猿猴捉月図」。長谷川等伯は雪舟の流れをくむ桃山時代の代表的画匠で、小書院の襖絵「猿猴捉月図」及び「老松」の図は共に等伯の筆である。10時、モミジの永観堂へ向かう。
2005年11月12日
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡S南禅寺 (2004.12.04)
今日は旅の5日目、最終日である。予約していた観光タクシーが8時半に到着、宿の近くの南禅寺から拝観する。
南禅寺は臨済宗南禅寺派の大本山で、正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺という。正応4年(1291)亀山上皇の離宮を大明国師(無関普門)に賜り禅林禅寺としたのに始まり、足利義満の時、五山制度の中で五山を超える「五山之上」と言う禅宗寺院最高の寺格を賜り、五山文化の中心にあった。応仁の乱以降は衰退したが、江戸初期に崇伝が金地院を移入して再興をはたし、多くの文化財を今に伝えている。
↑ 南禅寺中門 ↓ 法堂
伽藍は西を正面とし、背後に東山を負う。勅使門(重要文化財)は慶長度の内裏日御門を移したものである。
方丈(桃山期、国宝)は大方丈と小方丈からなり、大方丈は天正度の内裏清涼殿を移築したものである。また、小方丈は伏見城の遺構といわれている。方丈の内部に探幽筆といわれる「群虎図」(重要文化財)40枚があり、「虎の間」と呼ばれている。
大方丈前面の庭園は俗に「虎の子渡しの庭」と呼ばれ、小堀遠州の作と伝えられるという。
現在の三門(重要文化財)は五間三戸二階二重門の規模で左右に山廊をもち、禅宗(唐)様からなる三門正規の形式の建築である。
三門は空門、無相門、無願門の意味で仏教修行の三解脱をあらわすという。南禅寺の三門は天下竜門と号し、上層の楼を五鳳楼と言う。開創当時の門は永仁3年(1295)西園寺実兼の寄進により建立されたが、応安年間(1368〜1375)に新三門に改築され、文安4年(1447)の火災で焼失する。現在の門は、寛永5年(1628)に藤堂高虎が大坂の陣に倒れた将士の菩提を弔うために再建したものである。


↑ 南禅寺三門 ↑ 三門全景(拝観券より)


↑ 楼上から参道を見る ↑ 楼上から天授庵、大方丈(右)



水路閣は琵琶湖疎水の分線(蹴上以北)にある水路橋で、疏水は、琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路である。滋賀県大津市で取水され、南禅寺横を通り京都市東山区蹴上に至る。疏水の工事は明治21年(1890)に竣工した。水路閣は田辺朔郎の設計で、延長93.17メートル、幅4.06メートル,水路幅2.42メートルの煉瓦、花崗岩造りのアーチ橋で優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つと言われている。なお、赤煉瓦の水路橋はの下をくぐると、南禅寺発祥の地である南禅院にでる。

次は南禅寺の塔頭の一つ、金地院を拝観する。
↑ 南禅寺中門 ↓ 法堂
方丈(桃山期、国宝)は大方丈と小方丈からなり、大方丈は天正度の内裏清涼殿を移築したものである。また、小方丈は伏見城の遺構といわれている。方丈の内部に探幽筆といわれる「群虎図」(重要文化財)40枚があり、「虎の間」と呼ばれている。
大方丈前面の庭園は俗に「虎の子渡しの庭」と呼ばれ、小堀遠州の作と伝えられるという。
現在の三門(重要文化財)は五間三戸二階二重門の規模で左右に山廊をもち、禅宗(唐)様からなる三門正規の形式の建築である。
三門は空門、無相門、無願門の意味で仏教修行の三解脱をあらわすという。南禅寺の三門は天下竜門と号し、上層の楼を五鳳楼と言う。開創当時の門は永仁3年(1295)西園寺実兼の寄進により建立されたが、応安年間(1368〜1375)に新三門に改築され、文安4年(1447)の火災で焼失する。現在の門は、寛永5年(1628)に藤堂高虎が大坂の陣に倒れた将士の菩提を弔うために再建したものである。

↑ 南禅寺三門 ↑ 三門全景(拝観券より)
↑ 楼上から参道を見る ↑ 楼上から天授庵、大方丈(右)
↑ 三門楼上からの俯瞰(写真3枚の合成)
↑ 三門から参道を見る 南禅寺境内で →
↑ 水路閣の水路 水路閣 →
次は南禅寺の塔頭の一つ、金地院を拝観する。
2005年11月11日
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡R光悦寺 (2004.12.03)
光悦茶屋で昼食後、13時45分、光悦寺に入る。
本阿弥家は代々刀剣鑑定、磨砺、浄拭を家業とし、今もその業を続けているという。
元和元年(1615)本阿弥光悦は、徳川家康公からこの地を野屋敷として拝領した。光悦はそこに一族、工匠らと居を構え、光悦を中心とする工芸集落を営んだ。また同時に本阿弥家先祖供養の霊室として位牌堂を設けたが、光悦の死後、寺として日蓮宗光悦寺となり今日に至っているという。(写真はクリックで拡大)


↑ 光悦寺の参道 ↑ 光悦寺本堂
境内の一角にには光悦および本阿弥家の墓所がある。


↑ 光悦翁墓所 ↑ 本阿弥家墓所
光悦は寛永三筆の一人と称され、書や蒔絵、陶芸に独自の芸境を開いたという。
また光悦は茶道においても古田織部や織田有楽斎に教えをうけ、千宗旦とも最も深く交わって茶道の奥義を極めたという。境内には光悦終焉の大虚庵茶席、了寂軒など七つの茶室がある。
大虚庵茶席は光悦没後廃滅したが、大正4年に現在の大虚庵が復興した。



↑ 大虚庵 ↑ 了寂軒 ↑本阿弥庵
光悦が考案したとされる光悦垣は、臥牛垣とも言われ、字の通り牛が寝ているような形をした特徴ある垣根である。


↑ 光悦垣(臥牛垣) ↑ 光悦垣(臥牛垣)
光悦寺のモミジは殆ど散ってしまっており、残念であった。
14時15分、光悦寺の見学を終わり、鷹峰源光庵前バス停に向かう。光悦寺から100m位の所に「悟りの窓」「迷いの窓」で有名な源光庵がある。ここも拝観したいと思っていたが、残念ながら工事中で入れなかった。外から見た限りでは紅葉の真盛りのようだった。
14時25分発のバスで二条駅前まで行き、JR二条駅から京都駅に向かった。明日は旅行最終日で見学時間も少ないことから、京都駅の売店でお土産の買い物を済ませることにした。そして地下鉄で烏丸御池へ行き、京阪線に乗り換えて蹴上駅まで行く。今日の宿、南禅寺門前の「湖月荘」に着いたのは17時少し前になっていた。


↑ 南禅寺前の宿「湖月荘」 ↑ 湖月荘の夕食
京都最後の夕食は京懐石で美味しかった。明日は見学時間も少ないことから、個人タクシーの観光タクシーを利用する予定になっている。見学地は目の前の南禅寺からはじまる予定。
本阿弥家は代々刀剣鑑定、磨砺、浄拭を家業とし、今もその業を続けているという。
元和元年(1615)本阿弥光悦は、徳川家康公からこの地を野屋敷として拝領した。光悦はそこに一族、工匠らと居を構え、光悦を中心とする工芸集落を営んだ。また同時に本阿弥家先祖供養の霊室として位牌堂を設けたが、光悦の死後、寺として日蓮宗光悦寺となり今日に至っているという。(写真はクリックで拡大)
↑ 光悦寺の参道 ↑ 光悦寺本堂
境内の一角にには光悦および本阿弥家の墓所がある。
↑ 光悦翁墓所 ↑ 本阿弥家墓所
光悦は寛永三筆の一人と称され、書や蒔絵、陶芸に独自の芸境を開いたという。
また光悦は茶道においても古田織部や織田有楽斎に教えをうけ、千宗旦とも最も深く交わって茶道の奥義を極めたという。境内には光悦終焉の大虚庵茶席、了寂軒など七つの茶室がある。
大虚庵茶席は光悦没後廃滅したが、大正4年に現在の大虚庵が復興した。
↑ 大虚庵 ↑ 了寂軒 ↑本阿弥庵
光悦が考案したとされる光悦垣は、臥牛垣とも言われ、字の通り牛が寝ているような形をした特徴ある垣根である。
↑ 光悦垣(臥牛垣) ↑ 光悦垣(臥牛垣)
光悦寺のモミジは殆ど散ってしまっており、残念であった。
14時15分、光悦寺の見学を終わり、鷹峰源光庵前バス停に向かう。光悦寺から100m位の所に「悟りの窓」「迷いの窓」で有名な源光庵がある。ここも拝観したいと思っていたが、残念ながら工事中で入れなかった。外から見た限りでは紅葉の真盛りのようだった。
14時25分発のバスで二条駅前まで行き、JR二条駅から京都駅に向かった。明日は旅行最終日で見学時間も少ないことから、京都駅の売店でお土産の買い物を済ませることにした。そして地下鉄で烏丸御池へ行き、京阪線に乗り換えて蹴上駅まで行く。今日の宿、南禅寺門前の「湖月荘」に着いたのは17時少し前になっていた。
↑ 南禅寺前の宿「湖月荘」 ↑ 湖月荘の夕食
京都最後の夕食は京懐石で美味しかった。明日は見学時間も少ないことから、個人タクシーの観光タクシーを利用する予定になっている。見学地は目の前の南禅寺からはじまる予定。
2005年11月10日
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡Q鹿王院 (2004.12.03)
常寂光寺を出発して鹿王院に着いたのが11時40分。街中にあるにもかかわらず、境内は落ち着いた閑静な寺院で、客殿から本庭の紅葉をゆっくり観させていただきました。客殿の廊下には、プロのカメラマンが本庭の紅葉を撮るためにカメラを構えていました。
鹿王寺は足利3代将軍、義満が康暦2年(1380)24歳の時、寿命を延ばす事を祈って建てた禅寺で、覚雄山宝幢禅寺鹿王院と名付け・京都十刹第五の名刹で、開山は義満の師、普明国師という。
ここには山門、本堂の他、本庭、舎利殿、客殿がある。本堂には、運慶作の釈迦及十大弟子の像、開山普明国師・開祖義満の像が祀られている。本庭は舎利殿(駄都殿)を中心として、嵐山を借景にした庭である。街中にあるにもかかわらず、閑静な寺院で客殿から本庭の紅葉をゆっくり観させていただきました。(写真はクリックで拡大)


↑ 鹿王院の参道 ↑ 客殿(拝観入口)


↑ 客殿前の本庭(向うは舎利殿) ↑ 本庭の紅葉


↑ 本堂への渡り廊下で ↑ 紅葉と黄葉と(境内で)
12時10分、鹿王院を最後にタクシーでの観光を終り、鷹峰の「光悦茶屋」まで送ってもらった。ゆっくり昼食をいただき、次は光悦寺です。
鹿王寺は足利3代将軍、義満が康暦2年(1380)24歳の時、寿命を延ばす事を祈って建てた禅寺で、覚雄山宝幢禅寺鹿王院と名付け・京都十刹第五の名刹で、開山は義満の師、普明国師という。
ここには山門、本堂の他、本庭、舎利殿、客殿がある。本堂には、運慶作の釈迦及十大弟子の像、開山普明国師・開祖義満の像が祀られている。本庭は舎利殿(駄都殿)を中心として、嵐山を借景にした庭である。街中にあるにもかかわらず、閑静な寺院で客殿から本庭の紅葉をゆっくり観させていただきました。(写真はクリックで拡大)
↑ 鹿王院の参道 ↑ 客殿(拝観入口)
↑ 客殿前の本庭(向うは舎利殿) ↑ 本庭の紅葉
↑ 本堂への渡り廊下で ↑ 紅葉と黄葉と(境内で)
12時10分、鹿王院を最後にタクシーでの観光を終り、鷹峰の「光悦茶屋」まで送ってもらった。ゆっくり昼食をいただき、次は光悦寺です。
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡P常寂光寺 (2004.12.03)
常寂光寺は京都でも屈指の紅葉の名所で、特に散り紅葉の美しさは格別であるという。
常寂光寺の開山は究竟院日秕綽諭・襦宗のサ諭である。本尊は十界大曼茶羅。」
文禄4年(1595) 豊臣秀吉の東山方広寺大仏殿千僧供養には不受不施の宗制を守って出仕を拒否し、本圀寺を出てこの小倉山に隠栖し、常寂光寺を開創した。それは閑静なこの地に仏教の理想郷、常寂光土の趣を求めたことからこの寺名がつけられたという。
常寂光寺境内の仁王門は、もと本圀寺南門を移築したもので南北朝時代の建立という。本堂は慶長年間に桃山城客殿を移築したものという。
檜皮葺の多宝塔は、和様と禅宗様の両方の様式が取り入れられ、元和6年8月建立された。この塔の秀麗さは鎌倉期の名作・石山寺多宝塔とも比肩せらるることしばしばという。国の重要文化財に指定されている。


↑ 常寂光寺の表門 ↑ 表門より



↑ 鐘楼 ↑ 多宝塔 ↑ 多宝塔


↑ 多宝塔 ↑ 小倉山からの眺望
常寂光寺の開山は究竟院日秕綽諭・襦宗のサ諭である。本尊は十界大曼茶羅。」
文禄4年(1595) 豊臣秀吉の東山方広寺大仏殿千僧供養には不受不施の宗制を守って出仕を拒否し、本圀寺を出てこの小倉山に隠栖し、常寂光寺を開創した。それは閑静なこの地に仏教の理想郷、常寂光土の趣を求めたことからこの寺名がつけられたという。
常寂光寺境内の仁王門は、もと本圀寺南門を移築したもので南北朝時代の建立という。本堂は慶長年間に桃山城客殿を移築したものという。
檜皮葺の多宝塔は、和様と禅宗様の両方の様式が取り入れられ、元和6年8月建立された。この塔の秀麗さは鎌倉期の名作・石山寺多宝塔とも比肩せらるることしばしばという。国の重要文化財に指定されている。
↑ 常寂光寺の表門 ↑ 表門より
↑ 鐘楼 ↑ 多宝塔 ↑ 多宝塔
↑ 多宝塔 ↑ 小倉山からの眺望
11時25分、鹿王院へ向かう。
2005年11月07日
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡O二尊院 (2004.12.03)
10時20分、二尊院に入る。(殆どの写真はクリックで拡大)

平安時代初期に嵯峨天皇が慈覚大師・円仁を開祖として建立したのが起こりと伝える。その後荒廃したが、法然上人らによって再興される。しかし応仁の乱によって堂宇伽藍が全焼したが、本堂・唐門のみ約30年後再建された。本堂の勅額「二尊院」、唐門の「小倉山」の勅額は、後奈良天皇、後柏原天皇から下賜されたものという。
↓ 二尊院本堂 ↑ 二尊院総門
二尊院は釈迦如来像、阿弥陀如来像の二本尊を祀ってあることからこの名があるという。二本尊像ともに平安末期の作で重文に指定されている。正式寺名は小倉山二尊教院華台寺とか。天台宗の寺院である。
二尊院の山門(総門)は伏見城薬医門を移築したものという。総門をくぐると「紅葉の馬場」と呼ばれる広い参道がある。ここも紅葉の名所で秋は多くの人が訪れる。
紅葉の馬場をすぎて石段を上がると、寝殿造りの本堂が見える。本堂前の庭は龍神の庭と呼ばれ、九頭竜弁財天が祀られている。


↑ 本堂前の龍神の庭 ↑ 本堂脇の九頭竜弁財天堂の鳳凰


↑ 二尊院の唐門 ↑ 紅葉の馬場(二尊院参道)


↑ 紅葉の馬場(二尊院参道)
↑ 二尊院の庭

平安時代初期に嵯峨天皇が慈覚大師・円仁を開祖として建立したのが起こりと伝える。その後荒廃したが、法然上人らによって再興される。しかし応仁の乱によって堂宇伽藍が全焼したが、本堂・唐門のみ約30年後再建された。本堂の勅額「二尊院」、唐門の「小倉山」の勅額は、後奈良天皇、後柏原天皇から下賜されたものという。
↓ 二尊院本堂 ↑ 二尊院総門
二尊院の山門(総門)は伏見城薬医門を移築したものという。総門をくぐると「紅葉の馬場」と呼ばれる広い参道がある。ここも紅葉の名所で秋は多くの人が訪れる。
紅葉の馬場をすぎて石段を上がると、寝殿造りの本堂が見える。本堂前の庭は龍神の庭と呼ばれ、九頭竜弁財天が祀られている。
↑ 本堂前の龍神の庭 ↑ 本堂脇の九頭竜弁財天堂の鳳凰
↑ 二尊院の唐門 ↑ 紅葉の馬場(二尊院参道)
↑ 紅葉の馬場(二尊院参道)
↑ 二尊院の庭
10時50分、次の常寂光寺へ向かう。
2005年11月06日
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡N
(2004.12.03)
現在の祇王寺は昔の往生院の境内であるという。往生院は法然上人の門弟・良鎮に依って創められたと伝え、広大な地域を占めていたが、荒廃してささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれるようになったという。(写真はクリックで拡大)
↓ 祇王寺の山門
祇王寺墓地の入り口にある碑には、「妓王妓女仏刀自の旧跡明和八年辛卯正当六百年忌、往生院現住、法専建之」とあって、右側に「性如禅尼承安二年(1172)壬辰八月十五日寂」と刻んであるのは、祇王のことらしいという。
安永の祇王寺は明治初年になって廃寺となったが、明治28年、元・京都府知事北垣国道氏が嵯峨にある別荘の一棟を寄附され、これが現在の祇王寺の建物であるという。
祇王寺は大覚寺の塔頭で真言宗である。本尊は大日如来、他に清盛、妓王、妓女、母・刀自(とじ)、仏御前の木像が安置されている。
平清盛は白拍子(平安末期から鎌倉期にかけて行われた歌舞)の上手な妓王、妓女を寵愛していた。ある日、清盛の館に加賀の国の白拍子の上手な仏御前が現れて舞をお目にかけたいと押しかけてきた。
清盛は門前払いをしたが、妓王のとりなしで今様(白拍子の中で最も盛んに歌われた謡い物の一つ)歌わせることにした。仏御前は声も節も見事だったという。それで清盛はたちまち若い仏御前に心を奪われ、妓王は清盛の館を追い出されることになる。翌春になって、清盛は仏御前が退屈しているから、舞を舞って慰めよと使者をよこす。妓王はもとより行く気がなかった。
しかし、清盛の権勢と母の哀願に負けて、館に行って自分の思いを歌い舞った。そして再度このような目に会わないようにと、妹・妓女、母・刀自と3人で髪を剃って尼になり、嵯峨野のこの地で仏門に入った。
母子3人が念仏している所へ思いもかけぬ仏御前が尋ねてきた。仏御前は妓王の歌に無常を感じて、剃髪した尼の姿で館を出て来たという。

妓王は、「わずが17にこそなりし人の、穢土[ゑど](穢土=現世)を厭い、浄土を願わんと深く思い入り給うこそ」と、4人一緒に寺に篭って朝夕の仏前に香華を供えて、みな往生の本懐を遂げたという。
悲しい物語である。

← 宝筐印塔
左の宝筐印塔は妓王、妓女、母・刀自の墓、右の宝筐印塔は平清盛の供養塔。
祇王寺の庭は、「一面に広がる苔」の名所なのだが、今日はその苔の絨緞の上に紅葉の絨緞が敷かれ。何ともいえない美しさである。なおコケは「コバノチョウチンゴケ」や「ヒノキゴケ」だそうである。
↓ 祇王寺の山門
祇王寺墓地の入り口にある碑には、「妓王妓女仏刀自の旧跡明和八年辛卯正当六百年忌、往生院現住、法専建之」とあって、右側に「性如禅尼承安二年(1172)壬辰八月十五日寂」と刻んであるのは、祇王のことらしいという。安永の祇王寺は明治初年になって廃寺となったが、明治28年、元・京都府知事北垣国道氏が嵯峨にある別荘の一棟を寄附され、これが現在の祇王寺の建物であるという。
平清盛は白拍子(平安末期から鎌倉期にかけて行われた歌舞)の上手な妓王、妓女を寵愛していた。ある日、清盛の館に加賀の国の白拍子の上手な仏御前が現れて舞をお目にかけたいと押しかけてきた。
母子3人が念仏している所へ思いもかけぬ仏御前が尋ねてきた。仏御前は妓王の歌に無常を感じて、剃髪した尼の姿で館を出て来たという。
妓王は、「わずが17にこそなりし人の、穢土[ゑど](穢土=現世)を厭い、浄土を願わんと深く思い入り給うこそ」と、4人一緒に寺に篭って朝夕の仏前に香華を供えて、みな往生の本懐を遂げたという。
悲しい物語である。
← 宝筐印塔
左の宝筐印塔は妓王、妓女、母・刀自の墓、右の宝筐印塔は平清盛の供養塔。
祇王寺の庭は、「一面に広がる苔」の名所なのだが、今日はその苔の絨緞の上に紅葉の絨緞が敷かれ。何ともいえない美しさである。なおコケは「コバノチョウチンゴケ」や「ヒノキゴケ」だそうである。
次の訪問地は二尊院です。
2005年11月05日
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡M 直指庵(2004.12.03)
12月3日、滋賀・京都の旅も今日は4日目。チャーターしたタクシーで直指庵→祇王寺→二尊院→常寂光寺→鹿王院→光悦寺と回ります。朝8時50分に宿を出発。直指庵の開門を待って入る。(写真はクリックで拡大)


↑ 直指庵の山門 ↑ 直指庵の参道
直指庵は竹林の中にたたずむ小さな寺である。現在は祥鳳山と号する浄土宗の寺である。
もとは黄檗宗に属し、正保3年(1646)日本黄檗宗の開祖・隠元禅師の法燈を継ぐ独照禅師がこの地に没蹤庵という一宇の草庵を営んだのが起こりと伝える。
以後、諸堂が整えられ大寺となったが、黄檗宗の正統を直指人心するという意味で直指庵と称し、寺名を定めなかったという。その後次第に寺は荒廃したが、幕末の頃、近衛家の老女・村岡局がによって再興された。しかし、諸堂は明治13年(1880)に焼失したが、有志の人々の手によって明治32年に再建された。
本堂には、本尊・阿弥陀如来像を安置し、開山堂には独照禅師の木像を祀る円塔がある。


↑ 直指庵 ↑ 直指庵の甍
直指庵には、来庵者が思いを綴る「思い出草」ノートが置かれていて、そこには「そっと意地を私の心(ノート)にすててください。苦しむあばたをみているのがつらいのです。」と書かれている。今でも悩みの相談ができる寺であることから、現代の「駆け込み寺」ともいわれている。






直指庵も嵯峨野に相応しく竹と紅葉のコントラストが素晴らしい寺でした。
↑ 直指庵の山門 ↑ 直指庵の参道
直指庵は竹林の中にたたずむ小さな寺である。現在は祥鳳山と号する浄土宗の寺である。
もとは黄檗宗に属し、正保3年(1646)日本黄檗宗の開祖・隠元禅師の法燈を継ぐ独照禅師がこの地に没蹤庵という一宇の草庵を営んだのが起こりと伝える。
以後、諸堂が整えられ大寺となったが、黄檗宗の正統を直指人心するという意味で直指庵と称し、寺名を定めなかったという。その後次第に寺は荒廃したが、幕末の頃、近衛家の老女・村岡局がによって再興された。しかし、諸堂は明治13年(1880)に焼失したが、有志の人々の手によって明治32年に再建された。
本堂には、本尊・阿弥陀如来像を安置し、開山堂には独照禅師の木像を祀る円塔がある。
↑ 直指庵 ↑ 直指庵の甍
直指庵には、来庵者が思いを綴る「思い出草」ノートが置かれていて、そこには「そっと意地を私の心(ノート)にすててください。苦しむあばたをみているのがつらいのです。」と書かれている。今でも悩みの相談ができる寺であることから、現代の「駆け込み寺」ともいわれている。
直指庵境内の素晴らしい紅葉をお楽しみ下さい。
直指庵も嵯峨野に相応しく竹と紅葉のコントラストが素晴らしい寺でした。
次は『平家物語』で名が知れる
へ回りました。
2005年11月04日
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡L 宝筐院(2004.12.2)
ほとんどの写真はクリックで拡大します。
八代将軍・義政の代になって、義詮の院号に因み、寺名は宝筐院と改められた。話は変わり、正平3年・貞和4年(1348)正月、楠木正行は四条畷の合戦で北朝の大軍と戦い23歳で討ち死にする。黙庵は生前の交誼によりその首級を善入寺に葬った。後にこの話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄をほめたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだという。それでここには二基の石塔が立ったという。
現在この寺は臨済宗の単立寺院で、本尊は木造十一面千手観世音菩薩立像である。
宝筐院の庭園は本堂の南側が白砂・青苔と多くの楓はらなる回遊式の枯山水庭が広がり、見事な紅葉を見せている。書院北庭は座観式の枯山水庭と露地の二つの異なる庭からなる。本堂の西側はマダケの竹林となり、散策路が通じている。
素晴らしい庭の紅葉をお楽しみ下さい。
宝筐院の素晴らしい紅葉を鑑賞して、タクシーで嵯峨大覚寺前の民宿「一休」まで送っていただき、3日目の行程は終了し、明朝のタクシーを予約して宿に入りました。

ここでも美味しい京料理、残さず、きれいにいただける丁度良い量でした。
明日は直指庵の見学から始まります。
2005年11月03日
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡K 落柿舎(2004.12.2)
京都駅の食堂街で昼食をとり、嵯峨野へ向かう。嵯峨野は平安貴族が遊んだ景勝地であり、『源氏物語』『平家物語』や『枕草子』などの文学作品に描かれてきた。
JR嵯峨野線で嵯峨嵐山に着いたのが14時過ぎ。折角ここまで来たのだから、修学旅行以来の嵐山へ行きたいというので、タクシーをチャーターして嵐山渡月橋へ行く。そして源氏物語の舞台になった嵯峨野の野宮神社近くの、昼なお暗い鬱蒼とした竹の道を見学する。
↓ 懐かしい嵯峨嵐山の渡月橋 ↓ 嵯峨野は竹林の名所、竹の道


そして蕉門十哲の一人に数えられた向井去来が晩年を過ごした落柿舎に向かう。
落柿舎は江戸初期の俳人・向井去来の閑居跡である。去来は元禄の初め、嵯峨に古家を求めて農民や町人も出入りできる俳諧道場にしたという。落柿舎の名は、ある商人が庭の柿の買い入れを決めて代金を払っていった夜、風で一夜のうちに実が落ちてしまったという話に由来するという。


芭蕉は元禄4年4月18日から5月4日まで、この落柿舎に滞在して『嵯峨日記』を書いている。舎内には芭蕉の句碑(五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡)が建てられている。落柿舎はのどかな田園風景にしっくりとなじむ藁葺の建物である。

↑ 芭蕉の句碑(五月雨や)
← 落柿舎の内部
落柿舎には鹿(しし)おどしが設置されている。また落柿舎の北側には弘源寺の墓地があり、そこには去来塚がある、その背後には現代の歌人俳人に呼びかけて建てた沢山の句碑が並んでいる。そして隣接地には西行法師が小倉山麓に住んでいた時に用いたという「旧跡・西行井戸」がある。
↓ 落柿舎の筧(鹿おどし) ↓ 西行井戸


↓ 去来塚と句碑群 ↓ 去来塚


落柿舎の見学が終わったのが15時半。宿に入るにはまだ早いのでタクシーの運転手さんに紹介してもらって、宝筐院へ向かう。
JR嵯峨野線で嵯峨嵐山に着いたのが14時過ぎ。折角ここまで来たのだから、修学旅行以来の嵐山へ行きたいというので、タクシーをチャーターして嵐山渡月橋へ行く。そして源氏物語の舞台になった嵯峨野の野宮神社近くの、昼なお暗い鬱蒼とした竹の道を見学する。
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↓ 懐かしい嵯峨嵐山の渡月橋 ↓ 嵯峨野は竹林の名所、竹の道
そして蕉門十哲の一人に数えられた向井去来が晩年を過ごした落柿舎に向かう。
芭蕉は元禄4年4月18日から5月4日まで、この落柿舎に滞在して『嵯峨日記』を書いている。舎内には芭蕉の句碑(五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡)が建てられている。落柿舎はのどかな田園風景にしっくりとなじむ藁葺の建物である。
↑ 芭蕉の句碑(五月雨や)
← 落柿舎の内部
落柿舎には鹿(しし)おどしが設置されている。また落柿舎の北側には弘源寺の墓地があり、そこには去来塚がある、その背後には現代の歌人俳人に呼びかけて建てた沢山の句碑が並んでいる。そして隣接地には西行法師が小倉山麓に住んでいた時に用いたという「旧跡・西行井戸」がある。
↓ 落柿舎の筧(鹿おどし) ↓ 西行井戸
↓ 去来塚と句碑群 ↓ 去来塚
落柿舎の見学が終わったのが15時半。宿に入るにはまだ早いのでタクシーの運転手さんに紹介してもらって、宝筐院へ向かう。
次は楠木正行、足利義詮の菩提所・宝筐院を拝観する。
2005年11月01日
滋賀・京都の紅葉と芭蕉史跡J 寂光院(2004.12.2)
宝泉院の見学を終り、呂川の辺の商店街を散策し、また大原の里を眺めながら寂光院に着いたのは11時半。寂光院はまだ再建の途中だった。2005年4月に落慶法要が営まれたとか。

10時40分、宝泉寺を出て寂光院へ向かう。三千院の御殿門まで戻り、呂川沿いの土産物店が並ぶ道を下る。途中バス停で国際会館行きの時間を確認して、細い遊歩道を辿る。


↑ 寂光院の受付 ↑ 寂光院の山門
寂光院は推古2年(594)聖徳太子の創建によると伝える。初代住職は聖徳太子の御乳人玉照姫という。寂光院は平家物語のヒロイン建礼門院が余生を送った所として有名な尼寺である。壇の浦の合戦で平家は滅び、建礼門院は幼い安徳天皇を抱いて入水したが、1人源氏に助けられた。その後、都に戻った建礼門院は寂光院の傍らに庵を結び、わが子・安徳天皇と平家一門の冥福を祈って終生を送ったという話はあまりにも有名である。

← 寂光寺本堂は、平成12年5月9日、放火により焼失したが、平成17年4月に再建され、落慶法要が営まれたとか。私達が訪れた時は、まだ工事中であった。


← 雪見灯篭
本堂前右にある大きな南蛮鉄の雪見灯篭は太閤秀吉の桃山城にあったものだという。


↑ 北庭園は回遊式四方正面の庭であり、林泉木立水清き池等古き幽翠な名作の庭で、特に岩清水を引いた3段の滝は、玉だれの泉といい各段高さと角度が異なり、三つの滝の響き、音色が異なるという。
11時50分、拝観をおわり、大原バス停に戻り、国際会館前行きに乗車。国際会館から地下鉄で京都駅へ行く。ここで昼食をとり、嵯峨嵐山へ向かう。
ほとんどの写真はクリックで拡大します。
10時40分、宝泉寺を出て寂光院へ向かう。三千院の御殿門まで戻り、呂川沿いの土産物店が並ぶ道を下る。途中バス停で国際会館行きの時間を確認して、細い遊歩道を辿る。
のどかな大原の里の眺め →
寂光院に着いた時は11時を回っていた。↑ 寂光院の受付 ↑ 寂光院の山門
寂光院は推古2年(594)聖徳太子の創建によると伝える。初代住職は聖徳太子の御乳人玉照姫という。寂光院は平家物語のヒロイン建礼門院が余生を送った所として有名な尼寺である。壇の浦の合戦で平家は滅び、建礼門院は幼い安徳天皇を抱いて入水したが、1人源氏に助けられた。その後、都に戻った建礼門院は寂光院の傍らに庵を結び、わが子・安徳天皇と平家一門の冥福を祈って終生を送ったという話はあまりにも有名である。
← 寂光寺本堂は、平成12年5月9日、放火により焼失したが、平成17年4月に再建され、落慶法要が営まれたとか。私達が訪れた時は、まだ工事中であった。
鐘楼 →
本堂前西側の庭は、古びた池、千年の古松、汀の桜等後白河法皇が御行当時そのままであるという。← 雪見灯篭
本堂前右にある大きな南蛮鉄の雪見灯篭は太閤秀吉の桃山城にあったものだという。

↑ 北庭園は回遊式四方正面の庭であり、林泉木立水清き池等古き幽翠な名作の庭で、特に岩清水を引いた3段の滝は、玉だれの泉といい各段高さと角度が異なり、三つの滝の響き、音色が異なるという。
11時50分、拝観をおわり、大原バス停に戻り、国際会館前行きに乗車。国際会館から地下鉄で京都駅へ行く。ここで昼食をとり、嵯峨嵐山へ向かう。
次のお目当ては竹林と落柿舎です。

